女性の「モノ化」で起きること
過去も現代も、女性は特に「性的な」モノとされやすい。セクハラ・痴漢・性暴力などの被害者となるとき、女性は男性の性的欲望や快楽のための単なる道具であり、操作される客体・対象とされてしまう。
そうした時に女性は、自己決定を無視され、受動的な存在とみなされ、女性であるなら誰でもよいという置き換え可能な形で被害者になる。また夫婦・恋人関係でも、女性は男性から「オレのもの」とみなされて自由を制限され、さらにはその意思や感情が無視されてしまうことがある。
さらに近年は、あらたに(8) 女性をその身体やルックスに還元してしまうという問題も重視されている。女性は胸や腰などに身体的特徴をもった、性的に魅惑的なものとみなされ、その性的な特徴だけが鑑賞されたり評価されたりする。そしてしばしば、その女性の人格や人柄が無視されてしまう。
たとえば超一流の女性スポーツ選手でさえ、報道では腰や胸などを強調した写真などが用いられ、本人の望む望まないにかかわらず、ルックスのよしあしが話題にされてしまう。
また、(9)エロチックな写真などでは、女性は体全体を鑑賞されるだけでなく、胸や腰や脚などの特に性的な部分・パーツに分けられ、その部分だけを鑑賞されることもある。こうしたことはおおむね女性の意志に反することであり、モノ化であり、そして不正なものを含む、とされる。
モノ化・道具化されるのは必ずしも女性だけではないが、女性は特にこうした性的なモノ化の対象となりやすいため、それは女性に対する不当な扱い、すなわち性差別とされるわけである。
『宇崎ちゃん』は「モノ化」か?
さて、問題の『宇崎ちゃん』ポスターを見るとき、上のような批判は当てはまるだろうか。
当のマンガ作品そのものを見てみると、宇崎ちゃんというキャラクターは、(1)先輩の単なる手段や道具とされてはおらず、強引に遊びに誘ってくる後輩として扱われており、(2)彼女の意志は尊重され、彼女の意志に反するセクハラなどははっきり拒否されており、 (3)格別に主体的・能動的な女性として描かれている(むしろ常に先輩が遊びに誘われる形で受け身になっている)。
彼女はさらに(4) 他の女性と置き換えできないかけがえのない存在であり、(5)勝手に触ったりできる存在ではなく、(6) 誰の所有物でもなく、(7)彼女自身の性格、発想、感じ方が作品のテーマとなっている。また女性をステレオタイプ的(典型的・画一的)に描いているとも言いがたい。
つまり、マンガ作品としての『宇崎ちゃんは遊びたい』を読む限り、この作品が女性を性的にモノ化しているという批判はあてはまらないように思われる。それどころか、宇崎ちゃんが他の登場人物のセクハラ的発言に対して強く対決しているシーンもあり、宇崎ちゃんは自覚的・自立的・能動的で魅力的な女性として描かれている。