理念はむき出しでは使えない
「主体的・対話的」であることが、学力を身につけるための基本的な素養として大事であることに、誰も異存はないはずです。
しかし、こうしたことが入試の局面で発揮されるのは、問題本文や問いかけ文と真正面から向き合い、これを読み込もうとして受験生が思考をめぐらせる過程という、きわめて個別的で目に見えにくい次元においてです。しかしそうであるからこそ、その過程は各受験生の能力として尊重されるのです。
ここから考えれば、会話文を含む問題を出題することで「対話」力を測れるはずもなく、誰かの立場に立って課題発見・解決のプロセスにつきあう形で問題を解き進ませることで「主体」性や他者と共感する力を測れるはずもありません。理念の内実を熟させることなく、このように生な形で問題に埋め込んでも、それは決して良問にはならないのです。
記述問題に関しては、受験生が多くの条件に縛られるために思考の幅を狭められ、本来問うべき学力が測れなくなっている、と度々批判されました。この点は文科相も認めたところですが、実は作問者側にもこういった形式上の条件が課せられていたように見受けられます。
与えられた枠組み(先述の1~3)に合うような複数の文章や資料を作問者は必死で探し、あるいは創作するのですが、それはそう容易なことではありません。結果として、切り取られ集められた文章や資料は内容が薄く、どのような学力を問うているのかよくわからない質の低い問題ができあがってしまうのです(記述問題が生きていたなら、その上に質の低い採点がなされることになったでしょう)。
国語教育に携わったことのある者なら誰でも、良質の文章を「読む」ことこそあらゆる学力の基本であることを、承知しています。にもかかわらず、それをよくわかっているはずの一集団によってこうした問題が作成されてしまったとするなら、そこには問題作成の方向性をあらかじめ制約する、相当に強固な枷がはめられていたとしか思えません。しかも、それが恐らく教育改革の根幹に関わると見なされているからこそ、おいそれとは手放さないだろうと思われるのです。