であればこそ、大卒リベラル・アーツ専攻の人々に対しては、リベラルな態度を期待できるのかもしれない。実際、2018年に行われたインターネット調査データの分析では*12、非大卒層に比べ、リベラル・アーツ分野の大卒者は反権威主義的態度が強く、それ以外の社会科学や工学といった分野の大卒者は格差肯定意識が強いという結果が報告されている(渡辺・齋藤 2019)*13。
つまり、大卒層を一枚岩的に見た場合、少なくともその公正観と失われつつあるイノベーティブな価値観という点においては、大卒層全体に期待をし続けるのには疑問が付されるということになる。だが、同じ大卒層であっても、リベラル・アーツに関しては、これまで大卒層全体に対して向けていた期待のまなざしを向けることができるのかもしれないのだ。
いま、リベラル・アーツをどう見るか
もちろん、リベラル・アーツに向けられるまなざしには、期待などといった楽観的なものだけではなく、リベラル・アーツ自身にとっては厳しいものもある。例えば、新自由主義的な立場から「有用性」の名のもとに展開される学問批判がそうだ。
仮にこうした批判によって、人文学などの規模が縮小することになれば、自分たちを「勝ち組」と位置づけ、格差を容認し、新たな社会からは目を背ける大卒層が増加する——そんな新自由主義を含む保守主義の自己循環的なシナリオが描かれるようになることは、想像に難くないだろう。

ひるがえっていえば、新自由主義的な立場から行われる学問批判は、その照準を特に人文学に合わせていたという意味において、大卒層のリベラルな態度を内から弱める、的を射たものになっていたと評価できるのかもしれない。
それゆえ、アカデミアや左派の側にしてみれば、リベラル・アーツという「最後の砦」を守るために、こうした批判に対して反論を試みる必要が生じるわけだ。
最近では、2015年の文部科学省の通知に端を発する、いわゆる「文系廃止論」をめぐる議論などがそうだろう。一連の議論のなかでは、さまざまな論者によって、文系がいかに役に立つ学問であるのかが語られたし、データによる検証もされてきた*14。そうした営み自体は、文系の当事者たちにとっては、やはり必要不可欠なものだったといえるだろう。
ただし、以下は私見になるのだが、「有用性」の名のもとに展開される学問批判は、必ずしも文系だけを対象としていたわけではないという点も、重要なのではないだろうか*15。たしかに、「文系廃止論」といった、既に設定されてしまったかのように見える問題のもとでは、「理系は優遇されて、文系ばっかり苦境に立たされて…」と考えたくなってしまうかもしれない。
しかし、ノーベル賞の盛り上がりの裏で報道される日本の基礎科学への憂いに象徴的なように、「有用性」の切っ先を向けられていたのは、必ずしも文系だけではないはずだ。むしろ、そうした「有用性」の影におびえなければいけなくなってしまっていたのは、文系と理系という区分によって見過ごされた、リベラル・アーツだったのではないだろうか*16。