向かいから来る車から突然男性が「ジャマイカ!」と私に叫んできた。私は国になる。小さな子が「あの人は外国みたいだね」というと私は日本以外のすべてになる。すれ違いざまに短絡的に「オコエ!」「大阪なおみ!」と言葉を投げかけられるとスポーツ選手にもなる。これらの発言を私は脳内でカジュアルな差別だと認識している。無意識にも積み重なる心の負荷は私の内的世界を嫌でも拡張させてしまう。
それはドロドロと煮詰まった苦しさを解放するため、というよりはそこにたっぷりと自分を住まわせるために発達した思考回路。そしてそれは私の純粋な芸術表現へと直結していく。 それは「日本人同士」にとってはあまりにも真っ当で、簡単で、フランクでナチュラルな行為(特に日常会話)が、私と他者の間においては断ち切られた結果、生まれた世界だ。

その世界は素晴らしく創造性が豊かだと自任してるが、今後一切、誰一人入れないとも感じている。けれどとても住み心地がいい。
でもこんな捻くれた構造体の精神の住居など作らずに、上っ面は穏やかで怠惰に、柔らかな時間の上をなんも考えずノープランでフラフラと歩くなんてことができたら、私はどれほど俗世的な幸せを得られたか! とたまに思うことがあるが、今現在俗世的な幸せを得られないことも幸せである。こうして自分の魂と深く向き合う、向き合う向き合う向き合う向き合う向き合う向き合う向き合う。
————————ハッ! となって未だに鳥居のそばなんかに居座っている私は考えの波がおさまらないけど、苦しいことを忘れて表現活動のために肉体と精神を直結させないといけないと強く思うその強ッ烈すぎる強迫観念で(私には芸術がある。描いたり書いたり創ったりする事が一番の友達なんだッ)急いで家に帰りカフェインの錠剤なんかを深夜まで創作(文章を書く・作品を作る・学校の課題制作)するために飲むと、いつ何時に自分が薬を飲んだかなんてとっくに忘れて気づいたら適量の6倍くらいの錠剤がなくなっていたことに、副作用で震えた手・覚醒した頭で気づく。