あなたは、何のために生きていますか? 家族ですか? 仕事ですか?
では、もっと遡って何のために生まれてきましたか?
いつその答えを見つけましたか?
誰しもが、自問自答したことがあると思う。
かくいう私自身も、幼少期から自分の「生」について問い続ける日々だった。
2020年4月から、子どもへの「しつけ」を名目とした虐待を予防するために改正虐待防止法が施行される。これは虐待による死亡事件が増加したことを受け、「しつけに関して体罰を加えてはならない」というものだ。
その「体罰」とはもちろん、言葉の暴力も含まれている。親から否定され続け、存在価値を見出せずに自己肯定感を全く持てずに育ってしまうことも少なくない。
デザイナーを目指して働いていた立花遥さんは、まさにそういう境遇に育った。20歳のときには、15歳年上の男性に「自分を必要としてもらっている」と思い、モラハラ軟禁された経験もある。立花さんがどのように育ったのか、そしてどうやって「生きる意味」を感じることができたのか、綴ってもらった。
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生まれてすぐに離婚、恋愛体質の母
裕福ではない家庭に生まれ、私を産んですぐに離婚をした母は典型的な恋愛体質の女性であり、子どもには気が向いた時以外は興味がなかった。その上ギャンブル依存で、ほぼ育児放棄をしていた。実の父と母とは、父のDVが原因で私の生後すぐに別れた。母が再婚した義父は仕事最優先で家庭を顧みず、母との諍いが絶えなかった。出張か愛人の家に泊まっており、ほとんど家には帰ってこなかった。
私は保育園に預けられたが、お迎えの時間になってもだいたいの日は誰も来ない。パチンコ屋が閉店した頃に機嫌悪く母が迎えにきてくれる。周囲の大人たちは、母にも私にも腫れ物に触るような扱いをしていた。
母は仕事をしていなかったが、パチンコ屋に行くとき以外はいつも布団で寝込んでいた。私は一人ぼっちだった。「母は病弱だから仕方ないのだ」とずっと幼心ながらに思っていたが、大人になって具合が悪いから寝込んでいるのではなく、明け方まで遊んでいるから寝込んでいるのだという母の矛盾に気がつき、もう一度傷ついた。
母は若くに私を産んだので、私が小学生になってもまだ二十代で綺麗な人だった。義父とうまくいかず別れたくても、私がいることで次の恋愛にハンデがあったのだろう。
「あなたが居るから他の人と再婚できない」
「あなたさえ居なければ……」
といったことを繰り返し言われていた。
記憶のある3、4歳頃から12歳くらいまでずっと言われていたので、私は常に自分は居てはいけない存在なのだと申し訳なく感じて生きてきた。
世界で一番大切で大好きなはずの母親に、いつも存在を否定され続けるのは、本当に悲しかった。義父と喧嘩をしたり、ギャンブルで負けた後などは、何気ないことをキッカケに布団叩きの棒で血が出るまで腹、背中、腿、尻などを叩かれ、何時間もベランダに立たされていた。今日は母の機嫌が良くありますように、パチンコがうまくいきますように、お迎えに来てくれますように……とよくお祈りをしていた。

しかし、ごく稀に機嫌が良い時には優しくしてくれ、私の顔を見て微笑んでくれたり、年に何回かは一緒にスーパーに連れて行ってくれてお菓子を買ってくれた。それだけが、私が母の子で居てもいいのだと思わせてくれることだった。