イリーナ(以下I):ベートーヴェンのピアノ・ソナタは傑作揃いですが、ばらばらではなく、「全曲」を演奏することにはやはり特別な意義があると思います。
本にも書いたとおり、全曲演奏は山登りに近いと思います。高い山、低い山、32のいろんな山がある。中にはエヴェレストのようなとんでもない高峰も聳えています。だから実際に登ってみると、下から見ていた時とは違う風景があらわれてくる。とてもチャレンジングな企画です。
2008年から2009年にかけて、初めて全曲演奏に取り組みました。音楽家として成長することができましたし、初めてベートーヴェンの全体像がつかめたと思いました。それから10年の年月が経ち、250周年という節目の年にどんな光景を見ることができるのか、自分でも楽しみにしています。
「熱情」は「すべて」が同時に必要にされる
――東京で3月7日(土)の午後と夜に行われる第1回・第2回の公演では、併せて10曲を弾かれます。選曲の基準は?
I:第1回は「熱情」、第2回は「ワルトシュタイン」というように、毎回かならず有名な曲を1つは入れました。普段はあまり演奏されない曲も含めて、ベートーヴェンの多様な面を感じて頂けるようにしたいと思っています。
――ということは、第1回目の「目玉」はやはり「熱情」?
I:はい。ベートーヴェンの代表作の1つですね。パッションのかたまりのような曲。ベートーヴェンと言ったら、やっぱりパッション。「ベートーヴェンってどんなひと?」と聞かれたとき、その人となりをわかってもらうために聞かせるのに、交響曲第5番「運命」とともに一番ぴったりじゃないでしょうか。有名な、髪の毛の逆立った肖像画のイメージみたいな。
たんに有名なだけでなく、スケールが大きくて、内容も、とても深い作品です。技術的にも難しい。ベートーヴェンの仕事の集大成と言いますか、1つの頂点。それまでのソナタで試してきた要素をすべて入れて、完璧な作品として仕上げた――それが「熱情」だと思います。
あらゆるピアノ・ソナタの中で、もっとも弾くのが難しいと言われるのもわかります。体力と精神力、両方ともフルに必要とされる。でも、だからといって、入れ込みすぎて曲の構造をきれいに見せられなくなってはダメ。バランスが大事。「すべて」が同時に必要とされるんです。
例えば第3楽章では、「ソナタ形式」で書かれていることを意識的に見せたい。演奏に要求される様々な技術・テクニックを見せることももちろん大事ですが、それだけにとどまらず、構造性を、きちんと。パッションだけでなく、どれほど素晴らしい形式の中にそのパッションが表現されているか、それをぜんぶ見せたい。それと、音や響きそのものの多彩さも。
この作品は、ベートーヴェンとしても精神的にギリギリのところで作っていると思うんです。もう一歩で狂気に陥ってしまうのでは…という危うさがある。その意味でもまさにベートーヴェンらしい、ど真ん中の作品です。