それでは、いかにして軍部は政治に関与し、国運を左右していくことになったのでしょうか。明治維新から終戦まで(1868~1945年)の近代日本の「軍部」の歴史を通史的に描いた小林道彦氏の近刊『近代日本と軍部1868-1945』から、その一部を紹介します。
第一次上海事変の勃発
危機はその頂点に達しようとしていた。国務と統帥の対立、さらには軍部内の諍いも顕在化し始めた。天皇は心労の余り動揺はなはだしく、側近の目にも日々憔悴の色を濃くしていた。思いつめた天皇は、御前会議を開いて時局を収拾しようと考えた。
鈴木貫太郎侍従長はそれに賛成して、「元老大官」の結集を促そうとしていたが(「遠藤三郎日記」1932年2月5日、『河井弥八日記』2月4・5日)、天皇に政治責任が及ぶことを恐れた西園寺は〝火中の栗〞を拾うことには消極的であり、結局、御前会議は開かれなかった。

海軍強硬派の統帥部掌握
艦隊派は皇道派と連携して早速反撃に転じた。彼らは東郷平八郎元帥を担いで穏健派を攻撃し、谷口・百武は相次いで更迭され、その後任には伏見宮博恭王と高橋三吉が就任した(2月2・8日)。陸海両統帥部はともに軍内強硬派によって掌握されたのである。
2月7日、上海では海軍が呉淞(ウースン)砲台に航空攻撃を加えた。その真意は早期に中国側の屈服を促し、第九師団の派兵を不用にすることにあった。
だが、それは諸刃の剣でもあった。第一航空戦隊には艦隊派はもとより、陸軍革新運動とも気脈を通じている士官が多くおり、隊内には好戦的気分が横溢していた。彼らはまた、空母による戦力投射という新戦術を実地に試みたいという衝動に駆られてもいた。
前年の錦州爆撃と同様、呉淞の爆撃もいたずらに一般住民を巻き添えにしただけに終わった。砲台は落ちず、中国軍の士気はかえって高揚した。この間、日本陸軍の上陸はすでに開始されており(2月7〜14日)、現地では戦機がみなぎりつつあった。そして一連の形式的な交渉を経て、2月20日、陸軍の総攻撃が開始された。
ところが、それは予期せぬ敗北に終わった。中国軍を撃破するどころか、その堅塁を日本軍は突破することができず、逆に大損害を被ったのである。
同日、国内では衆議院選挙が行われていたが、犬養は争点を経済政策に絞っていた。彼は外交政策を公約化することで、自らの秘密裏の外交交渉が拘束されることを嫌ったのである。結果は政友会の大勝であり(政友301、民政146)、議会での政権基盤はようやく強固なものになった。
なおこの選挙の最中に、前大蔵大臣井上準之助は血盟団の凶弾に斃れている(2月9日)。内外情勢が騒然とする中で、政党政治もまたテロの脅威に曝されていたのである。