「近代理性の象徴」であった軍部は、なぜ暴走したのか?

いかにして軍部は政治を呑み込んだのか

天皇の軍部への不信と意思表示

日本の世論は相変わらず熱しやすく、政党内閣としてはその動向に応えないわけにはいかなかった。また、中国軍に一撃を加えねば、〝国軍の威信〞はもはや保てなかった。

23日、犬養内閣は二個師団(第11・14師団)の動員派遣を決定し、上海派遣軍の編成が下令された(司令官白川義則)。25日、天皇は宮中に参内した白川に対して、上海での戦火の拡大を国際連盟総会開会日の3月3日までに食い止めるよう口頭で直接指示した。

これは異例の措置であった。満州事変以来の例を見ても、奉勅命令では戦線拡大を阻止できない。関東軍への勅語下賜も無効に終わった。臨参委命の発令も今の参謀本部スタッフには望むべくもない。

だとするならば、朕の意図するところを直接白川に伝えるしかないではないか。軍部に対する天皇の不信感は、かくも深くまた強かったのである(寺崎英成『昭和天皇独白録』34〜36頁)。

上海では新たな戦火が燃えさかっていた。諜報活動によって中国空軍の攻撃企図を察知した海軍が、空母「加賀」「鳳翔」を杭州湾に侵入させ、同方面の航空兵力に先制攻撃を加えたのである(2月26日)。

空母「加賀」(『満洲・上海事変写真帖』国立国会図書館所蔵)

当時、ジュネーブでの海軍軍縮会議の席上、日本の松平恒雄全権は航空母艦の全廃を主張していた。第一航空戦隊に国家革新運動に共鳴する将兵が多かったことを考えれば、一連の航空作戦は国際軍縮会議と条約派に対する事実上の政治的挑戦でもあった。

犬養毅の抵抗

犬養も事態を傍観していたわけではない。彼は時局収拾の主導権を取り戻すために、内閣に「対満蒙実行策案審議委員会」を設けて、内閣官房と各省の課長クラスからなる幹事会(幹事長は外務省亜細亜局長の谷正之)に政策立案を行わせようとしていた。ちなみに、陸軍代表は杉山元と永田鉄山である。

また、宇垣や上原を動かして荒木を抑えようとした。彼らはともに満州からの早期撤兵と警察力による治安維持を唱えており、右委員会での最優先審議事項には「治安維持に関する事項」が挙げられていた。犬養は上原に荒木を説得させて満州治安警察構想を吞ませてから、その関係予算を閣議に提出するつもりであった(『西園寺公と政局』2、214頁)。

だが、宇垣と上原にとって過去の抗争の記憶はあまりに鮮明であった。結局、この構想も上手くは進まなかった