「人権教育」がめざすもの
そこで、本来必要とされるのは「人権教育」のはずだ。
日本国憲法にある通り(14条)、差別は「政治的、経済的又は社会的関係において」発生する。したがって、その関係のあり方を分析し、変えていくことでしか差別問題は解消していかない。これは、「人権教育」の課題である。それは、「人が自らの権利を知り、権利の主体として、それを実現するために行動」することが、「人間性の回復であり、社会を変えることにつながる」ような教育のことである*1。
つまり、人権教育がめざしているのは、構造的に問題を把握することであり、それに基づく社会変革なのである。これは、道徳がいわば「心のありよう」といった個人の内面に焦点を当て、その枠組みにおいて問題を把握しようとしていることとは大きく異なる。
「人権」とは、人類の歴史において「獲得」されてきたものである。それは、その時々の社会体制の中で虐げられ、人間としての尊厳を踏みにじられてきた人々が、自らの人間性の回復を「人権」や「権利」という概念で表現し、権力と闘うこと(市民的抵抗、レジスタンス)で勝ち取ってきたものである。人権や権利は、「社会的」で「争議的」なものなのである。
こうした動きの中で、社会的な制度や構造が変わり、強者からの一方的な「温情」や「思いやり」といった「心のあり方」によらずとも、差別解消への道筋が開けてくるのである。
したがって、人権教育にとっては、いま自らが生きている社会についての分析が不可欠となる。そして、そこでの人々の暮らしをどう理解していくか、それを踏まえて社会のどこに問題を見出し、どのように変革していくかを問うことになる。たとえば、人権や権利を守るためには、どのような法制度が必要なのか、と問うことになるだろう。そこには、国家をどう位置づけるかという観点も含まれてくる。