日本の人権教育の「落とし穴」
しかし、現在の日本の「人権教育」では、子どもたちが上記のような視点を獲得するのは難しいかもしれない。そのことを考えるために、2000年に制定された「人権教育及び人権啓発の推進に関する法律」を参照してみたい。
その第2条で、人権教育は、「人権尊重の精神の涵養を目的とする教育活動」であると定義されている。さらに、「人権啓発とは、国民の間に人権尊重の理念を普及させ、及びそれに対する国民の理解を深めることを目的とする広報その他の啓発活動(人権教育を除く。)をいう」となっている。
つまり、人権教育や啓発は、個人の精神を涵養し、理解を深めていくことだとされているのである。「心がけ」に重点が置かれていると言えるだろう。「道徳教育」がめざすものに近くなっていることがわかる。

このような形で人権教育が表現されたとき、いったい何が起こるのか。それは、人権侵害の社会的状況を分析し、構造的な課題として制度等をどう変えていくかといった「抵抗」の側面の脱落である。
繰り返しになるが、あえて強調したい。人権課題は道徳では絶対に解決しない。
なぜなら、それは心の問題ではないからである。たとえば、貧困は、勤労意識を高めれば解消するのか、温暖化等の環境問題は、各人が電気をこまめに消すことで解決するのか、皆が障害者への思いやりをもつとその社会参画が進むのか、性のあり方について理解すれば女性の雇用条件が向上するのか、同性愛者の婚姻問題も、さまざまな難病を抱える人たちへの医療的保障も、戦争をめぐる問題も…。これらの課題は、政治、経済、歴史等の問題として考えなければ解けない。個人の心の状態ではないところにその問題の根を探さねばならない。
課題を政治、経済、歴史等の問題として考える必要性は、いわゆる新自由主義的な自己責任論が一般化している今日、一層強まっているだろう。なぜなら、そこではさまざまな問題を「私的世界」の中で解決していくことが想定されており、それを公的な問題として位置づける方法は忌避されるのだから。