2020.04.05
# エンタメ

70年代のちびっこたちが、俺たちの「志村」の軍門に下った日

だから「志村」はこれからも生き続ける
松永 多佳倫 プロフィール

「志村は下品」と言いながら大笑いする大人

私は当初、加トちゃん派だったが、志村の人気が急上昇に連れて、いつのまにか志村派に鞍替えしていた。『東村山音頭』の歌で始まり、一丁目で衣装で驚かせてアップテンポで唄うパターンは、それまでのドリフにはない定番のネタとなった。二匹目のドジョウを狙った“ディスコ婆ちゃん”が思ったほどのヒットに繋がらなかったが、後の志村の原型を決めたものとなる。

“ひとみ婆さん”を彷彿させる手人形を右手に持って、その人形の口をパクパクさせながら、志村がジェームス・ブラウン調の大音量のギターのリズムに合わせて「アーアッ!」と何度も叫ぶ。まったくもって意味がわからないが、子供にとって笑いに意味はいらない。強烈に可笑しかった。そして真新しさを感じた。度肝を抜かれた。

 

それから志村の独壇場が始まった。『全員集合』の前半のコント劇は志村がほぼほぼ主役となった。

金田一幸助扮する志村が探索を始めると、後ろにお化けが出てくる。それを見た観客のチビッコたちから「志村、後ろ後ろ!」と大合唱のような掛け声が鳴り響く。これがほぼ毎週のお約束になったのだ。もし現代であれば、「志村、後ろ後ろ!」は流行語大賞にノミネートされていたはずだ。

その後、「ヒゲダンス」、「♪カラスの勝手でしょ〜」、「早口言葉」と着実に志村の地位が確立するとともに、毎週月曜日の加トちゃん派と志村派との抗争もなくなり、かつては二分する勢いだった加トちゃん派は極少数となっていった。

志村の人気が沸騰する以前から、『全員集合』は高視聴率のおばけ番組だった。一方で、毎度毎度PTAのワースト番組に挙げられていた。それが、志村の過激なギャグ、パイ投げといった食べ物を粗末にするネタ、真似すると危険なシーンなどが多くなるにうつれ、PTAからの批判もより増していった。

そういうこともあって、志村に対し、当時子供を持つ20代、30代の母親たちからの人気はイマイチだった。私の母・春代も「志村は下品で嫌い」と罵りながら、いつも口を開けて大笑いしていた。「大人は嘘つきだ」と思ったものだ。

志村がドリフでデビューしブレイクした1970年代は、高度成長期を経て一気に流通網が発展したことで、名実ともに飽食暖衣の時代となり、みなが自立した生活を目指せるようになってきた。

多様化した個人の自己実現にどんどん踏み込んでいった。70年代前半は、ルールそのものを壊すための表現だった60年代のカウンターカルチャーの名残があり、ギャグの自由度が高かった。

そして、1980年代になると、テクノロジーの発展により近未来への希望を持った時代の幕開けとなる。携帯電話、パソコンといった現代社会において必需品となるものの原型は80年代に生まれた。テレビゲーム、CD、ビデオが一般家庭に普及し、子どもの遊びにも、ゲーム&ウォッチやファミコンなどデジタルなオモチャが入ってきた。

それに伴い、『全員集合』人気に陰りが出てくる。それまでは変な格好や奇声をあげておげば笑いが十分に取れていたのが、パターン化することで飽きられるようになった。

『ドリフ大爆笑』でバカ殿のキャラが生まれはしたものの、所詮は月一レギュラーだ。主戦場は、週一レギュラーの『全員集合』であるが、十何年間もパターン化されたコントを中心に展開していたせいか、志村の求心力も弱まっていく。

その隙を突くように、1981年10月『オレたちひょうきん族』が始まった。80年代の漫才ブームの勢いに乗って吉本芸人が多く出演し、“たけちゃんマン”のコーナーで、ビートたけしと明石家さんまとのアドリブもどきの楽屋落ちは、生放送の『全員集合』で予定調和のコントばかり観ていたチビッコにとって斬新だった。

この頃には、学校で「ドリフが面白い」と言うものなら白い目で見られるほど、チビッコの中でドリフは無用の長物として扱われるようになった。

そして、ドリフ王朝時代も終焉を迎える。最高視聴率50パーセントを超えるお化け番組『8時だョ!全員集合』が1985年10月の改編とともに終了した。だからといって『ひょうきん族』の牙城が長期にわたって続いたわけではなかった。

明石家さんまと共に二本柱のひとりであったビートたけしがいろいろな理由で収録を休むようになり、極め付けが、1986年12月のフライデー襲撃事件での謹慎。ひとりが欠けることで『ひょうきん族』人気はあっという間に衰退していった。

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