なぜ講談社は大改革に成功したのか?受け継がれる「野間家のDNA」

大衆は神である(88)最終回
魚住 昭 プロフィール

新たな夢──日本の国家百年の大計

もうひとつ、手紙で省一がふれているのは、満洲における出版統制の問題である。

満洲国には「満文書籍」の出版社が育っていないので、「満人」の読書欲を満たす書籍・雑誌が圧倒的に不足している。それを補うには「上海方面」から輸入するほかないのだが、そうすると「反満抗日」のプロパガンダ記事が流入してくる。満洲国政府や関東軍はそれを警戒して厳しい検閲体制を敷いているので、「満文書籍」の不足はいつまでも解消されない。

省一が「日本の政治もこういう方面には案外手がのびていません」と書いたのは、そうした事情を指している。これは、「満人」の読書欲に応えられない文化政策の貧困に対する批判である。

さらに注目すべきは、「満文書籍」の問題が「日本の国家百年の大計」と密接につながっているという省一の認識である。これはおそらく、彼が哈爾浜鉄道局の中枢ポストで、大勢の中国人社員らの処遇や動向に目を配る立場にいたことと無縁ではないだろう。

こうして高木義賢あての手紙を読んでいくと、哈爾浜時代の省一の関心が「国家百年の大計」にかかわる出版事業に向けられていく過程がわかる。省一が満鉄を辞め、野間家入りを決断した本当の理由は、そのあたりにあったのではなかろうか。

 

楢橋國武の証言

省伸は、祖父が出版の国際交流に情熱を注いだ二つ目の理由として、「戦争に対する反省」を挙げた。が、当の省一は私が調べた範囲では、戦争について何も語っていない。

唯一の例外が、楢橋國武(ならはし・くにたけ)の次の証言である。楢橋は戦後、講談社従業員組合(のち講談社労働組合)を立ち上げ、さらに単産(産業別単一労働組合)である出版労協→出版労連の初代委員長として通算27年間その任にあった人物である。

省一が野間家入りした1941(昭和16)年、楢橋は朝鮮の野間鉱業部(清治がはじめた金山開発事業)の鉱山で働いていたが、ある日、満鉄の哈爾浜鉄道局につとめる叔父から手紙を受け取った。

自分の上司であった高木省一氏が講談社に入られたが、すばらしい方であるから、本社勤務をお願いしたらどうか。もし希望するなら頼んでやってもよい

という内容だった。楢橋は叔父に頼まず、自分で本社人事課に手紙を書いた。すると、なぜか希望がかなえられ、太平洋戦争が勃発した12月8日に朝鮮を出発した。

講談社の本社勤務となった楢橋は、戦争一色となった内地の状況に戸惑いを感じた。すでに講談社の中でも防空演習が行われ、青年学校が組織されていた。楢橋はたちまち軍国青年になった。“国破れれば山河なし”と思ったからであった。

やがて楢橋は友人に誘われてスメラ学塾の影響を受けるようになった。スメラ学塾は「日本世界維新の建設的戦士の養成」をめざす右翼結社で、鈴木庫三のさしがねで講談社に顧問団を送り込んだ国民精神文化研究所とも関係が深かった2

関連記事