なぜ講談社は大改革に成功したのか?受け継がれる「野間家のDNA」

大衆は神である(88)最終回
魚住 昭 プロフィール

国際化とデジタル化に舵を切る

省伸の代になって講談社の国際進出が本格化したのにはわけがある。すでにふれたように彼は三菱銀行の調査部員としてロンドンに4年間駐在した後、1999年、講談社入りした。その彼の目に映った講談社は世界的に見て特異な存在だった。

当時、講談社は2000億円近い売上規模があったんですが4、99.9%は国内市場、99.9%が紙に依存しているという状況でした。売上2000億円規模なら一部上場企業でもおかしくない規模ですが、少子高齢化が加速する中で、ここまでドメスティックで、かつ一つのビジネスモデルに依存するという企業はあまりないので極めてリスキーだなと思ったんです

2011年、東日本大震災と佐和子の急逝という不幸に襲われながら、省伸は第7代社長に就任した。

紙の出版販売総額は、1996年に2兆6563億円とそのピークに達する。しかし、その後、市場は急速に縮小し、四半世紀で半分以下の規模に落ち込んだ5。その理由についてはさまざまな分析が可能だが、ここではメディアの多様化のなかで紙媒体の優位性が低くなったこと、少子高齢化による読者(受容者)の変化、取次システムに代表される流通の疲弊という三つの問題点を指摘するにとどめておく。

省伸がまず打ち出した戦略が、講談社の事業の国際化とデジタル化である。コミックなどの電子書籍を中心に米国、中国、フランスなど海外諸国への本格進出を始めると宣言し、自社で二万点の書籍を電子書籍化するとの大号令を発した。

当初、社員たちの多くが不安視した省伸の大胆な戦略転換は図にあたった。講談社の2019年度決算をみると、売上高約1300億円の内訳において製品売上と事業収入の売上規模が600億円台でほぼ均衡し、事業収入のほとんどはコミックを中心としたデジタル関連事業によってもたらされている。また、海外事業の売上は70億円に達する。構造的な出版不況の中でのこの数字は驚異的と言ってもいいだろう。

受け継がれるもの

20世紀初頭、日本の生産年齢人口の6割近くは「不就学者」だった。それからたった20年で世間の人々の4分の3が文字の読める「初等教育卒」になった。このとき清治は「初等教育卒」にターゲットを絞り、「中学校に行かなくとも偉くなれる」と説き、講談社の礎を築いた。

戦後、教育は民主化された。6・3・3制が導入され、義務教育は小中学校の9年間となった。新制高等学校が3年、新制大学は4年となり、旧制の高等学校、高等商業学校、高等師範学校、外国語学校、音楽学校、美術学校などは大学の教養部や商学部、教育学部、あるいは独立した大学に姿を変える。敗戦から15年後(講談社創業50周年から1年後)の昭和35年(1960)には「中等教育卒」は生産人口の30.1%に、「高等教育卒」は5.5%を占めるに至っていた。この社会の高学歴化に適応した出版活動にシフトしていくというのが省一の判断であった(以上、連載第81回も参照)。

それからの講談社、惟道から佐和子の時代は基本的に省一の戦略にのっとってきたといってよい。教育の普及と高度経済成長は、出版界に全集ブームや週刊誌の創刊、コミック誌市場の爆発的拡大、ファッション誌の展開など空前の繁栄をもたらした。そのなかで講談社も多少の浮き沈みはあったものの、惟道が折りにふれて説いた「経済性と文化性の両立」を実現してきた。

そしていま、省伸は祖父の路線からの離脱をはかっているようにも見える。しかし、市場の変化、社会の変容に着目するという点において、やはり省伸の行動パターンは初代や祖父と同じだといえよう。

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