自分たちが信仰する宗教の素晴らしさを説く、「勧誘活動」。熱心に信仰していた祖母は、その勧誘活動にも精を出していた。
けれど、祖母が熱心に勧誘することで、弊害もあった。それは小学生の頃。彼女がぼくのクラスメイトの両親を勧誘したときのことだ。
熱心に信仰している人たちが、世間からはどう見られているのか。当時のぼくは、想像もしなかった現実と直面することとなった。
「宗教勧誘」に一生懸命だった祖母
ぼくの祖母は人一倍信仰心が厚く、人生をそのまますべて神様に委ねるような生き方をしていた。なにかを決めるときは、神様にお伺いを立てる。困難とぶつかったときは、神様にすがりつく。幸運に見舞われたときは、真っ先に神様に謝意を伝える。
生活の中心には、いつも神様がいた。
そんな祖母が「勧誘活動」にも一生懸命になるのは、当然のことだった。信仰心を持たない人に対し神様がいかに素晴らしい存在なのかを説き、一緒に幸せになろうと目を輝かせる。ときには相手の悩みや苦しみを指摘し、それらもすべて信仰によって浄化されるのだと手を差し伸べる。祖母自身もそうやって信仰の扉を叩いた。
祖母の3番目の娘――つまりぼくの母親――は、生まれつき耳が聴こえなかった。自分の子どもに障害がある。いまほど障害に対する理解が進んでいなかった当時、祖母はどれだけ自分のことを責めただろう。健康な状態で生んであげられなかったという自責の念が彼女を蝕み、そこを突くようにやってきたのが宗教を信じる人たちだった。彼らは祖母の悩みに耳を傾け、その姿勢に感化された彼女は次第に宗教に傾倒していったのだ。

やがて祖母は、自身も「勧誘する側」にまわった。事実、近所には祖母の勧誘をきっかけに「信者」になった人たちが大勢いた。時折、彼ら彼女らはぼくの家を訪ね、祖母に自分の「悩みの進捗状況」を報告していた。
息子が大学に合格したとか、姑との関係が改善されたとか、一つひとつはぼくからすれば些細なことだった。けれど、涙ながらに悩みが解消されたことを報告する姿を見て、ぼくは素直に「よかったなぁ」と思っていた。祖母が勧めた宗教に入り、人生が好転したのだ。それはとてもいいことだし、もっと言うと、そのきっかけを作った祖母がなんだか誇らしいとさえ思えた。