コロナ禍に迷走する政治家に重なる、責任回避した特攻立案者たちの姿

75年経っても変わらない無責任体質
神立 尚紀 プロフィール

大失態を演じても栄転できる海軍の悪習

ところが、第二航空艦隊司令長官として、大西中将に続きフィリピンで特攻隊を出撃させた福留繁中将、第三航空艦隊司令長官として関東からの特攻作戦を指揮し、昭和20年8月15日、終戦を知りながら玉音放送直前に特攻隊を出撃させた寺岡謹平中将は、いずれも戦後、目に見える形で自発的に責任をとることのないまま天寿を全うしている。

福留繁中将(左)と、寺岡謹平中将(右)

福留は、聯合艦隊参謀長を務めていた昭和19年3月31日、搭乗した飛行機が悪天候で遭難、フィリピンで抗日ゲリラの捕虜となり、重要機密書類を敵に奪われるという失態を演じた(海軍乙事件)。

本来なら、海軍の「俘虜査問会規定」により査問にふされ、さらに軍法会議にまわされて、最高刑を死刑とする「軍機保護法」で裁かれるべきところ、海軍は、「福留一行を捕えたのは敵の正規軍ではなくゲリラであるから、捕虜にはあたらない」との妙な理屈をつけ、福留を軍法会議にかけることも、予備役に編入することもしなかった。それどころか、聯合艦隊司令部の失態を糊塗するかのように、福留を第二航空艦隊司令長官の要職に栄転させた。

 

フィリピンで、大西中将と福留中将に見送られて特攻出撃し、生還した元隊員のなかには、

「大西中将は隊員の目をじっと見て、両手で握手をした。それがいかにも心がこもっていて、長官は自分も死ぬ気で命じていることが伝わってきたものです。福留中将は隊員と視線を合わさず、握手もおざなりな感じだった」

と回想する人もいる。「死」を命じられる極限の状況であればこそ、「命じる側」の覚悟の持ちようが、握手ひとつからも感じとれたのだ。

握手で特攻隊員を見送る福留繁中将。福留は昭和46年、80歳で歿

シンガポールで終戦を迎えた福留は、英軍戦犯として禁錮3年の刑に服し、帰国後は防衛庁顧問などをつとめ、昭和47(1972)年、80歳で亡くなった。

寺岡は、大西中将の前任の第一航空艦隊司令長官でもあったが、フィリピン・ダバオで来るべき米軍侵攻に備えていた昭和19年9月、見張員が暁闇の白波を敵の上陸部隊と誤認したのを確かめもせず、玉砕戦になると早合点して通信機器や暗号書、重要書類を破却し、戦わずして司令部機能を失うという醜態をさらした。

これは、平家の大軍が水鳥の羽ばたく音を源氏の軍勢と間違えて敗走した「富士川の戦い」を思わせることから、「ダバオ水鳥事件」と呼ばれる。

さらに、幻の敵上陸部隊に備えて、フィリピン各基地に配備していた戦闘機をセブ島へ集結させたところに敵機動部隊艦上機の奇襲を受け、それまで蓄えた虎の子の航空兵力が壊滅してしまう(セブ事件)。

そのため、寺岡は在任わずか3ヵ月で更迭され、後任として大西中将が第一航空艦隊司令長官として着任した。大西が特攻を命じざるを得なくなったのは、すでに正攻法で戦えるだけの航空兵力がフィリピンに残っていなかったからでもあり、いわば寺岡の失策の尻ぬぐいをさせられたのだとも言える。

にもかかわらず、帰国した寺岡はその後、第三航空艦隊司令長官として、本土防衛の第一線に返り咲いた。

現場の将兵はつねに死と隣り合わせだが、長官や幕僚クラスとなると、失敗を犯して味方を窮地に陥れても、中央の覚えがめでたければ復活の目がある。これは、陸軍と比べリベラルとも評される海軍において、大戦中、顕著に表れた悪習だった。

寺岡は、潜水艦乗組だった長男・恭平中尉が昭和19年11月に戦死していて、そのことには同情を禁じ得ない。戦後は旧海軍関係者の長老的存在として、昭和59(1984)年、93歳で亡くなるまで長命を保った。横浜市鶴見区の総持寺に建立された大西瀧治郎中将の墓誌は、寺岡の筆によるものである。

――後世の目から見て、また「命じられる側」の視点で見ても、福留、寺岡両中将は、すぐれた指揮官として評価されるべき人物ではない。ただ、せめてもの救いは、両名とも最晩年まで戦没者慰霊に尽くし、毎年10月25日、東京・芝の寺に旧海軍の関係者が集って営まれた特攻隊戦没者慰霊法要に欠かさず参列するなど、特攻で死なせた旧部下への良心の呵責を垣間見せていたことである。

自刃した大西中将のような身の処し方はできなかったが、責任を感じていたであろうことは、さまざまな痕跡からもうかがえる。だが、特攻作戦の中枢にありながら、そんな痕跡すら残していない将官もいる。

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