海外では、「ロックダウン(都市封鎖)」や「ソーシャル・ディスタンシング(社会的距離)」が強調される。これはとにかく人と人との接触を断つことを実現させる方法だ。
これに対して「三密の回避」は、より穏健だが、予防策として妥当性のあるアプローチになっている。もし本当に「患者の5人に1人しか他人には感染させない、しかし悪条件がそろった時のその1人からの感染によって、5人にも10人にも拡大していく」のだとしたら、とにかく人と人との接触を禁ずるという短期的なアプローチに加えて、「三密の回避」という要領を得た長期戦向きのアプローチがあるのは財産だ。
「三密の回避」のメッセージが、果たしてどこまで効果を持ったのかを検証するのは簡単ではない。予防行動のメッセージであるため、数字に残らない。
だが日本では、3月下旬に急速に拡大した日本の総感染者数が、4月に入ってから増加率を鈍化させ、4月中旬以降は新規感染者数が減少に転じた。3月は多数発生していたとされる「夜の街」のような三密環境での典型的な「クラスター」の発生は、最近では報告されていない。
集団感染の事例は院内感染が主だ。予防行動が機能している、と評価することはできる。3月25日小池百合子東京都知事の「自粛要請」会見以降の「三密の回避」のメッセージの浸透が、4月以降の事態の改善に貢献していると考えるのは、妥当だと思う。

こう考えると「三密の回避」は、「日本モデル」の象徴的な成功なのだが、日本人がそのように意識化していないのは、残念である。
クラスター対策班に集められた大学教員ら「専門家」が、クラスターとは次々とクラスター対策班の指示で発生したクラスターを潰していくことだ、という自分に都合のいい宣伝をしているので、国民行動と結び付けた予防戦略としてのクラスター対策の意義が見失われてしまっている。
クラスター対策班の「専門家」は、自らを「8割おじさん」と呼び、マスメディアやSNSでの濃厚な発信を通じて、「人と人との接触の8割削減」実現運動を主導している。だがこれは本来のクラスター対策班の仕事ではなく、そもそも「専門家」の仕事でもない。
国民を誘導して感染を減らし、最後の1人をクラスター対策班が封じ込めて、撲滅宣言をすることが、正義だ、と信じて行っていることだとは思うが、「専門家」の「クラスター教」に対しては、現場の保健所からの不満も聞かれる。
彼らは、「あたかもクラスター対策で『封じ込め』ができるかのような説明がなされましたが、そんなことは最初から無理だと思っていました」、「専門家会議の“クラスター教”の人たちの発想は、理解ができません」と考えている(NewsPick「【核心】保健所のリアル」)。
クラスター対策は、国民行動変容を通じた予防戦略につながる意義もあることを意識化することは、保健所の方々の努力を正当に評価するためにも、非常に重要だ。日本という社会は、地道な現場の人の努力で支えられている。ところが、「専門家」層がそれを意識化して称賛したりせず、いたずらに空想的なリーダーシップを求めたり、あるいはリーダーシップの欠落を嘆いたりすることにだけエネルギーを費やしているのは、生産的ではない。