2020.05.12
# 戦争

戦争は人の心も変えた…語られなかった「戦争孤児」の過酷な人生

戦争孤児の戦後史
栗原 俊雄 プロフィール

年が明けて45年3月。一緒に疎開していた6年生が、卒業のために帰京することになった。金田さんは母親の強い意向もあって、一緒に帰ることになった。夜行列車で上野駅に着いたのは同月10日朝。東京大空襲の後だった。

300機以上のB29が東京・隅田川沿岸を襲った。爆撃自体は2時間程度で終わった。しかし人家が密集していた地域で、折からの強い北風もあって被害は未曽有の大きさとなった。およそ10万人が殺された。

この空襲を指揮したのは米航空部隊の指揮官、カーチス・ルメイである。ルメイは前任者が精密爆撃、すなわち軍事施設を狙った空襲をしたのに対し、民間施設をも狙う「無差別爆撃」への舵を切った。紙と木でできた住宅の密集地帯を焼夷弾で狙う攻撃で、無抵抗の市民を焼き殺す作戦だ。戦後、被害者はこの将軍を「鬼畜」「皆殺しのルメイ」と呼んだ。

金田さんは上野駅から浅草の自宅を目指して歩いた。

「見渡す限り焼け野原でした。黒こげの死体やマネキン人形が焼け焦げたような、さまざまな死体があちこちにころがっていました」

家族は生きている。そう願ったが、行方は分からなかった。祖母の実家があった兵庫県に向かった。母と姉の遺体が隅田川で見つかったのは6月だった。妹は行方不明のままだった。

政府は遺体の収容を急いだ。そのままでは防疫に差し障りがあるし、士気にもかかわるのが必至だったからだ。多くの遺体が都内のあちこちで焼かれ、仮埋葬された。

戦後東京都が3年間かけて掘り起こしたが、ほとんどの遺体、遺骨は身元不明のまま「無縁仏」となり、東京・両国の慰霊堂に収められた。

 

金田さんのように、家族の身元が分かって遺体が収容され、お墓に収められるのは極めて異例なのだ。このことを踏まえ、金田さんは「孤児の中では恵まれていたかもしれません」と話す。

ただ、「母たちと一緒に死んだ方がよかった」という体験をすることにもなった。

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