2020.05.12
# 戦争

戦争は人の心も変えた…語られなかった「戦争孤児」の過酷な人生

戦争孤児の戦後史
栗原 俊雄 プロフィール

戦争は人の心も変えた

親戚の間を転々とした。最後は兵庫県の父方の伯父に預けられた。夫婦と子ども7人の大家族だった。金田さんはしかし、「家族」としては迎えられなかった。

早朝に起き、大家族の食事の支度をした。全員の布団の片付け、食事の後始末をすませてから登校。学校から帰ると夕飯や風呂の準備などに追われた。さらには年上のいとこから「お前は親戚中からすてられた野良犬だ」とののしられた。末っ子は「早く出て行け」と言った。叩かれることもあった。使用人以下の扱いだった。

金田さんが集めた孤児の証言や資料によると、引き取られた親戚に親のお金や土地などの財産を取られた、というケースがままある。金田さん自身がそうだった。母親が残してくれた貯金などを、伯父の事業に使われたのだ。『かくされてきた戦災孤児』には、そのことも書いた。

「こういうことを書いて、差し障りはないのですか」。私がそう問うと、金田さんは瞬時に言った。

「ええ。本当のことですから。戦争は人の心も変えてしまったんです」

「男のだったら浮浪児になっていたでしょう」。金田さんはそう振り返る。浮浪児とは、現代で言うストリートチルドレンだ。

金田さんのように戦争で保護者を失った子どもたちが地下道などをねぐらにする。生きるために盗みや売春などをするケースも多々あった。親戚や保護施設に収容されても逃げ出してその生活を選ぶ子どもも珍しくなかった。

「『わがままだから』『自分勝手だから』などと思われがちですが、実際はひどい虐待や差別に苦しみ、そうせざるを得なかった」のが実情だ。

「生きている方がつらい。死にたい」。金田さんは何度もそう思った。思いとどまったのは、「自殺すると天国にいるお母さんに会えなくなるんだよ」という祖母の言葉があったからだ。それでも「病気で死んだらお母さんのところに行ける」と、病死を願っていた。

浅草の商店で働いていた元店員や、友人の支援もあって何とか暮らした。県立高校を卒業。体一つで上京した。住み家どころか夜具さえもない。身元を引き受けてくれる親もいない。

住み込みの女中や飲み屋の女給。百貨店での売り子、法律事務所の職員――。職を転々とした。やがて右目の視力が衰えてきた。眼科医は「成長期の栄養不足が原因」と言われた。

25歳で結婚し、2人の子どもに恵まれた。生活も安定した。それでも、戦争で負った心の傷は癒えなかった。毎年3月になると頭痛がし、胸が痛くなる。

「自分を引き取った親戚も、食糧難などで苦労していた。そのストレスが私たち孤児にぶつけられた」。別の女性の戦災孤児はそう振り返る。彼女は親戚から「親と一緒に死ねば良かった」と言われた。

 

多くの孤児たちは戦後、ゼロどころかマイナスから人生を再設計していった。私は戦災孤児の取材を10年以上続けている。孤児たちの口は重かった。みじめな体験を他人に知られたくない。忘れてしまいたい。引き取った親戚の悪口を言うことになる――。そんな気持ちからだ。

金田さんも長く、沈黙を守っていた。転機は50歳を目前にして、命に関わる病気をしたことだ。「命のあるうちに、自分たち体験者が戦争孤児の記録を残さなければ」と思った。

関連記事