政権への批判が「感情的」「誹謗中傷」とされる、日本の倒錯的状況

コロナ禍、検察庁法改正で見えたこと
樫村 愛子 プロフィール

官僚的といえば日本では「霞ヶ関文学」や「東大話法」が有名である。昨今では「ご飯論法」などひどすぎるものも現れているが、アクセントを移動し文脈をずらして(しかし嘘はつかない)、コミュニケーションに誠実に応答しない態度と行為である。今回も、「アベノマスク」の調達先について国会でこうした議論が行われたことは記憶に新しい。

〔PHOTO〕Gettyimages
 

科学の言葉が一人歩きする

また今回のコロナ問題において、専門家(=科学者)の言説が政治を超えて一人歩きしている印象があるが、これについてはどうだろうか。

科学的言説についていえば、科学はそもそも問題を切り分け、部分に注目する(「部分的である」)ことで専門性を維持しているので、同じ医療でさえ感染症の専門と疫学専門では観点が異なり、互いに他の分野のことはよくわかっていない。部分的であることで専門性が保たれている以上、それ以上のことを望んでも、科学の知見には限界がある(科学には社会全体を動かす決定をすることはできない)。

それゆえ重要なことは、科学的言説の限界を引き取って、市民や政治が現実の行為を決定していくことである。特に科学が高度に進む現在では、科学的言説が過剰な役割を担うようになるため、社会の側でそれをコントロールすることが重要である。

早くに原発のリスクを指摘していたドイツの社会学者ウルリッヒ・ベックは、「科学的合理性」の限界を指摘していた。少しややこしいが、事柄が実際に起こるか否かの確実性の割合である「自然科学の蓋然性と確率概念」に対し、その確実性の割合の予測に基づく、社会の側の境界引き(安全と危険の境界)を問題とする「リスク概念」を提示し、自然と技術、経済と医学の案件と見られている環境問題等における社会的思考の重要性を指摘した(藤垣2002) 。言い換えると、科学的な知見を、社会で受け止め決定をしていく重要性が指摘されたわけだ。

関連記事