熱心な宗教信者だった祖母は、他宗教に対し、徹底して敵意を向ける人だった。そんな祖母と暮らしていたぼくには、「禁止されていること」がたくさんあった。

クリスマス会、初詣……。他の子どもたちが当たり前のように体験できることが、ぼくにはできない。それは「呪い」となり、大人になったいまもぼくを縛りつけている。

宗教三世のライター五十嵐大さんによる連載「祖母の宗教とぼく」。熱心に宗教を信仰する祖母のもと、幼い頃から朝夕のお祈りや集会は絶対だった五十嵐さんは、祖母の勧誘によって同級生の友人を失ったり、いじめに遭ったりと疑問を抱く経験を積み重ねていた。なにかを信じて救われることは素晴らしいことでもあるが、信教の自由というのは、個人単位ではないのか。それは家族だからと強要できることなのか。五十嵐さんの体験は多くの人にも疑問を投げかける。連載の7回目となる今回は、祖母の信仰によって生まれた「呪縛」についてお伝えする。
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観光名所である「教会」に
入れなかったぼく

昨年、友人と函館旅行をした。初めて訪れた北海道の大地。想像以上に寒いことに驚きつつも、新鮮な海産物を思う存分堪能し、たった2泊3日という滞在期間を目一杯楽しむことができた。ただし、どうしても忘れられないというか、いまだに違和として残っている感覚がある。

函館の街には観光名所としてあげられるほど美しい教会が至るところにある。ぼくが宿泊したホテルのある函館ベイエリア付近にも、荘厳な教会がいくつも点在していた。もちろん、旅の同行者だった友人もそこを観光しようとしていた。

函館には美しい教会がいくつもある Photo by iStock

「いまから教会に行ってみない?」

2日目の昼間だったと思う。突然、友人にそう誘われた。でも、なぜかすんなり頷けなかった。お土産を見にいくときも、活イカを食べにいくときも、二つ返事で賛成できたのに、「教会に行こう」という誘いにだけはうまく反応できない。

けれど、その場の雰囲気を壊したいわけでもない。ぼくは曖昧に頷き、友人についていくことにした。

ホテルから徒歩で数分。汚れのない真っ白な壁が印象的なそこは、「函館ハリストス正教会」という名前だった。間近で見ると、その美しさに圧倒されるほどだ。

「なかも見学できるって! 行ってみようよ」

嬉しそうに目を輝かせている友人の前で、ぼくは怯んでしまった。足を踏み入れてはいけない気がしたのだ。開かれている場所だし、誰に咎められるわけでもない。実際、次々と観光客がなかへと入っていく。それでも、「入っちゃいけない」という考えに囚われてしまい、ぼくは動けなかったのだ。結局、ぼくはその場で待つことにし、友人をひとりで見学にいかせた。

宗教から離れ、大人になっても、ぼくはいまだに「呪い」のようなものに縛りつけられているのかもしれない。教会を見上げながら、ぼくはため息をこぼした。