コロナ禍の状況を考えると…
飲むなら、ほどほどに――。それは前提として、この話のように構内の片隅で目立たずに、風景に溶け込むように大人しくしているのなら、個人的にはとくに声高に非難することでもなかろうと思う。
この話、昨今のコロナ禍に照らし合わせてみると、社会情勢が映し出されていて興味深くもある。
会社に出勤してみたが、仲間はテレワークで自宅に籠っていて会うことはできない。退勤後に連れ立って飲みに行こうにもお店はやっていない。あるいは、コロナ禍で会社の業績が悪くなり、倒産しないまでも給料は増えないし、悪くすれば減少となる。

立ち寄るところはないけれど、早々と帰宅するのも嫌だ。そんな社会状況が生んだのが「ステーション・バー」だとすれば、身につまされる哀しい話にもなろう。
もっとも、駅を通り過ぎる人々を眺めているとドラマや映画のシーンみたいだというのは、言い得て妙だ。腕のいい映画監督であれば、即席でドキュメンタリーフィルムを作ってしまうのではないだろうか。それほどに駅というのは別れと出会いのある“名舞台”なのだ。
鉄道好きの目線で言えば、ホームの片隅で、発着する列車を見ているだけで、時が過ぎるのを忘れてしまう。それくらいカメラも持たず、手ぶらで佇んでいると不審者にも誤解されかねないので、ちょっと隠れるようにアルコール飲料を口にするのは、たまにはいいかもしれない。
ひょっとすると、この「ステーション・バー」は、外出自粛によって広まった「オンライン飲み会」と並んで、コロナ禍が生んだ新しいスタイルの「飲み方」となるのかもしれない。