2020.07.10
# 週刊現代

老老介護の末、コロナ禍のなかで妻を喪った財津一郎さんの告白

「ママと生きられて、幸せだったよ」
週刊現代 プロフィール

「パパ、ありがとう」

1960年の春、二人は結婚する。しかし、俳優としての財津さんの収入はほぼゼロ。二人の生活は、貧しさを極めた。

「マトモな家を借りる元手がなく、大阪の田んぼの中にある4畳半の小屋を借りて住んでいました。でも、家賃が払えなくなって追い出された。

見かねたお坊さんが、お寺の納骨堂の横にあった納屋を無料で貸してくれて、そこでママと息子と3人で、肩を寄せ合って暮らしたこともありました」

壁の隙間から寒風が吹き込み、畳は腐って反り返っていた。子供が熱を出しても、病院に連れて行くおカネすらない。

「耐えかねたママが子供を連れて出ていってしまうのではないかと、僕はいつもビクビクしていました。でも、彼女は、グチ一つこぼすことはなかった。

それどころか、ある日、大金をもって帰ってきたんです。『嫁入り道具の帯と着物を売ってきました。これを生活費に充ててください』と。その気持ちがありがたくて、涙が出そうになった。

同時に、こんな惨めな思いを二度とさせてなるものか、と。あれ以来、僕はママに頭が上がらないんです」

その後も、ミドリさんは移動劇団の一員として地方を回り、苦しい家計を支え続けた。

ミドリさんに、なんとか楽をさせたい。吉本新喜劇に加入した財津さんは、死に物狂いで稽古に打ち込み、'65年には座長にまで上り詰める。

そして同年末からは、『てなもんや三度笠』(朝日放送)への出演が決定する。素っ頓狂な声で「非っ常にキビシ~ッ」「○○してチョウダイ!」などのギャグを連発する姿が受け、またたく間にお茶の間の人気者になった。

 

来る仕事は拒まず、俳優として映画やドラマにも幅広く出演した。

「30年間モーレツに働きました。それで、何度も倒れている。'95年には、脳出血で死にかけた。1ヵ月以上入院したけれど、ママは毎日必ずお見舞いにきてくれました。

あの頃から、少しずつ『残された時間は、ママと二人で過ごすために使いたい』と思うようになった」

'11年、77歳で出演した『3年B組金八先生ファイナル』を最後に、財津さんは仕事を一切やめた。

「それからしばらくは、平穏な日々が続きました。僕はリハビリのために始めたゴルフが趣味なんだけど、ママが元気な頃はいつも一緒にラウンドしました。

僕のゴルフクラブのカバーは、すべて裁縫好きのママが編んでくれたもの。これ以上ない、大切な宝物です」

仕事にもおカネにも追われることなく、二人で過ごす時間は、かけがえのないものだった。だからこそ、ミドリさんが少しずつ衰え、介護にかける時間が長くなっても、財津さんは幸せだった。

しかし今年の1月、二人の時間は終わりを告げる。血尿が出た財津さんが病院に行くと、膀胱に血の塊が見つかったのだ。そのまま、緊急手術を受けることになった。

「7時間の大手術でした。『退院して、早くママの元に戻らなきゃ』と思っていた矢先、息子から連絡が入った。『ママの肺機能に問題が起きて、自力で呼吸ができなくなった』と。彼女も、同じ病院に担ぎ込まれました」

手術後、医師から絶対安静を命じられ、起き上がれない日々が続いていた財津さんだったが、この一報を聞いて、気が気ではなかった。

痛みに耐えて車椅子に乗り、別の病棟にいるミドリさんを訪ねた。

「ママのいる病室まで近づくと、『ゼエゼエ』と呼吸音が聞こえてきた。人工呼吸器を着けたママは苦しそうで、とても会話ができる状態ではありませんでした」

程なくして、ミドリさんは大腸のポリープが破裂し、下血した。「その時」は、刻一刻と迫っていた。

折しも、中国本土で新型コロナウイルスによる死亡者が500人を超え、世界中で死亡者が出始めた時期だった。日本でもダイヤモンド・プリンセス号で検疫が行われ、10人の感染が確認された。

そうして、世界がコロナ禍に覆われだした2月6日。よく晴れた日の午後、ミドリさんのベッドの周りには、何人もの看護師が詰めていた。

財津さんは、ベッドから1mほどの距離まで近づき、ミドリさんの顔をじっと見つめた。

すると、ミドリさんがかすかに目を開けた。そして、絞り出すようにして言った。

「パパ、ありがとう。感謝してるよ」

これが、ミドリさんの最後の言葉になった。

「他人行儀に感謝の言葉をかけるような夫婦じゃなかったから、あんなふうに言われるとは思いもしなかった。きっと、ママはお迎えがそこまで来ていることを悟っていたんだろう。あの言葉は、ずっと耳に残っています」

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