「神様を信じれば、幸せになれるんだよ」
これは祖母の口癖だった。
“幸せの定義”すら理解していない幼い頃から、ぼくは何度も何度も繰り返し、そう言い聞かされてきた。
幸せになれる。目の前でうれしそうに笑いながら呟く祖母を見ていると、その意味はわからなくとも、なんとなく“いいこと”なのだとは思えた。祖母の信じる神様も、信仰も、宗教も、こんなに祖母を笑顔にしてくれている。だからきっと、それらはいいことであり、正しいことなんだ。ぼくは疑うことなく、彼女の言葉をそのまま受け入れた。
けれど、成長するにつれて、信仰に対する疑念が湧いてくる。これは本当に正しいことなのか。少なくとも、ぼくにとっては不必要で、盲目的になにかを信仰することは決して正しいとは言えないのではないか。そうして一度芽吹いてしまった疑念を、なかったことにはできなかった。
宗教三世のライター・五十嵐大さんによる連載「祖母の宗教とぼく」。五十嵐さんの母を出産したのち、ある宗教の信者となった祖母は、五十嵐さんの学級名簿を利用しての強引な布教活動もいとわず、他の宗教は一切認めない熱烈な信者だった。そのせいで五十嵐さんも五十嵐さんの母も大切な友人を失ったことがあった。
信教の自由は憲法でも保障されているが、それは「個人単位」なのではないのか。家族間で強要していいものなのか。それを考えさせられる連載の9回目は、祖母が天国へ旅立ったときに五十嵐さんが感じたことを率直に伝えていただく。
信教の自由は憲法でも保障されているが、それは「個人単位」なのではないのか。家族間で強要していいものなのか。それを考えさせられる連載の9回目は、祖母が天国へ旅立ったときに五十嵐さんが感じたことを率直に伝えていただく。
