2020.08.14
# 戦争

終戦のご聖断もあわや水の泡!? 日本海軍最強部隊叛乱事件の真相

徹底抗戦を主張した帝都防衛の精鋭部隊
神立 尚紀 プロフィール

裏社会にも通じる「親分」の力を借りて

19日、フィリピンに飛んだ河辺虎四郎陸軍中将を全権とする使節団に対し、米軍が、8月26日に厚木基地に進駐すると通告してきたからだ。日本政府は急遽、有末精三陸軍中将を委員長とする「厚木終戦連絡委員会」をつくり、厚木基地に派遣した。

しかし、厚木基地にはなおも多くの飛行機が残り、滑走路にも残骸が放置され、このままだと米軍機が安全に着陸することもおぼつかない。広大な基地には防空壕が張り巡らされていて、雑木林もあり、そのどこかに抗戦派が潜んでいるかもしれない。もし、抗戦派の残党が米軍に発砲でもしたら、平和進駐は壊れてたちまち武力進駐となり、湘南海岸が空襲や艦砲射撃で制圧され、最悪の場合、講和が無に帰することも考えられた。

そんななか、厚木基地で米軍機を迎え入れる準備を任されたのは、海軍機関学校出身で、航空機整備のエキスパートだった佐藤六郎大佐である。佐藤は、三〇二空と同じく厚木基地に本部を置く第一相模野海軍航空隊(整備員の養成部隊)で副長を務めたことがあり、基地内のことは熟知している。しかも、小園大佐とは旧知で、親友とも呼べる仲だった。

海軍航空本部の監督官として、中島飛行機大宮工場にいた佐藤に、厚木基地への派遣が発令されたのは8月24日。海軍省に自動車の空きがなく、工場疎開の機械運搬などで業務を委託していた「大安組」社長・安藤明の車を借りて厚木に向かった佐藤は、厚木基地南西の雑木林に、三〇二空抗戦派の残党らしい大勢の航空隊員が、日本刀と小銃、機銃まで持ち、篝火(かがりび)を囲んでいるのを見た。その数、約200名。士官の姿は見えず、下士官兵だけのようだった。

 

飛行場には、残骸もあわせて200機を超える飛行機があるという。これを翌25日中に片づけ、安全に着陸できるようにしなくてはならない。しかし、基地の隊員のうち、抗戦に与しなかった者はすでに復員が始まっていて、いま基地に残っている者は、そもそも危なくて使えない。佐藤は、ここは安藤の力を借りるしかないと考えた。

安藤は明治34(1901)年、東京生まれで当時44歳。23歳で運送業を始め、朝鮮、満洲にも進出。35歳で土建会社「大安組」を設立、軍需品輸送や飛行場建設を手がけ、一代で財を成した。学歴は小学校中退だが、才覚でのし上がり、軍の仕事で急成長したのだ。

児玉誉士夫などと同じく、裏社会にも通じる人物だが、終戦の混乱のなか、一声で数百人の作業員を集められる「親分」は、そうはいない。ただし、これは命がけの作業である。武装した隊員が付近の雑木林に潜んでいるのを見ても、発砲される可能性は十分に予測された。

「いま見た厚木飛行場の飛行機を片づける作業をやりませんか」

佐藤の依頼に、安藤が提示した謝礼は500万円(日本銀行の企業物価指数をもとに現代の貨幣価値に換算すると約100億円)。作業員200人、そのうち死者10人、負傷者50人が出ると予測して、これらの手当と諸費用に充てるという。佐藤はこれを受け、現金を渡したときが契約成立、ただちに作業にかかるという約束を安藤とかわした。

佐藤大佐は、25日、海軍省に赴き、安藤に支払う500万円の支出を談判するが、海軍省軍務局は、「金を渡して逃げられたらどうする」などと言って、首を縦に振らない。厚木基地の後始末の重要性を誰よりも知る米内光政海軍大臣は了承したが、閣議のため外出してしまい、あとを任された主計大佐が、詳細な見積書もなく現金は渡せないと言う。いま、そんなことをしている時間はない。佐藤は手ぶらで厚木基地に戻るしかなかった。

すでに夕闇が迫っていた。作業に使える時間は今晩だけである。厚木基地の格納庫内には、大安組の作業員250人が待機し、安藤はその前で、幹部数名と焚火を囲んでいた。佐藤は安藤に、

「安藤さん、すまない。今日は残念ながら約束の金をもらえなかった。これは弁解ではない。もし大安組がこの仕事をやってくれたら、私と契約したことになり、私が支払いの義務を負う。やらなければ、契約はしなかったことになります。そして、明日の米軍進駐に間に合わなければ、私が責任をとります」

と言った。安藤は、幹部の子分たちと二言、三言相談すると、佐藤に、

「佐藤大佐を信用する。払うなら500万円、耳を揃えて払ってもらいたい。しかし、見積がないとかなんとか言うのならタダでやる」

そして、

「作業を始める前に見せたいものがある」

と言い、赤茶色の大きな革のトランクを車から出して佐藤に見せた。なかには札束がぎっしりと詰まっていた。200万円、大安組の全財産だと言う。安藤は、こうなることを見越して、自ら現金を用意していたのだ。

「この金で、小園部隊を買収できないか」

とも、安藤は言った。佐藤は、

「それはできません。日本海軍の最強部隊ですよ」

と答えた。

いよいよ飛行機の撤去作業が始まる。機体の捨て場は厚木基地南端の谷間とし、離着陸に支障のない場所に放置されている機体には手をつけない。ガソリンに引火する可能性があるので煙草は絶対に吸わないことと、機銃、爆弾には手を触れぬよう、作業員に注意した。

戦後、厚木基地に残された飛行機の残骸。手前に零戦、次に「雷電」、奥には「月光」などが見える。「ヨD」は、三〇二空の部隊記号。進駐してきた米軍が撮影したカラー写真

作業を始めると、予想通り、雑木林の方角から銃弾が飛んでくる。そのために負傷者も出た。だが、射撃はだんだん散発的になり、作業も順調に進んで、26日早朝には滑走路はきれいに片づけられた。

作業が終わると、佐藤は安藤を伴い、拳銃を持って、抗戦派の残党が潜んでいた雑木林に行ってみた。おとなしく投降する者には、安藤が持っている200万円のなかから現金を与え、郷里に帰らせようと考えたが、一人も出てこなかった。佐藤は手帳に、〈大安組の安藤明社長に金500万円を支払う様御配慮下され度〉と海軍省軍務局第二課長宛にしたため、その頁を破いて安藤に手渡した。

安藤は、

「お別れだ。おぬし、死ぬんじゃないぞ。これからだ」

と言って、佐藤の手を握った。

関連記事