「新人だから未来がある」
新たな応援歌の歌詞はすでに学内で公募して、高等師範部に在学中の住治男の作品が選ばれていた。古関は伊藤戊から話を聞き、作曲を快諾したものの苦戦する。
後年、「阪神タイガースの歌(六甲おろし)」「巨人軍の歌(闘魂こめて)」など応援歌でも多くの名曲を残すことになる古関だが、このときはまだこの方面の経験も浅く、なかなか歌詞にふさわしい旋律が浮かばなかったのだ。
そのあいだに早大の発表会は日に日に近づいてくる。応援団の幹部も気がせいて、連日のように古関の家へ催促にやって来た。
髭を伸ばした猛者が7、8人で押しかけては、安普請の床を動き回るので、応対する金子は床が抜けないか冷や冷やしたという(前掲書)。
曲は発表会の3日前にようやく完成した。応援団のなかには「少し難しすぎる」という声もあったが、古関は《自信があったのでそのまま発表した》と前掲の自伝に書いている。
古関に依頼するにあたっては、彼が無名の新人だっただけに応援団の周囲では反対も少なくなかったようだが、伊藤戊は「新人だから過去はないけど未来があるよ」と説得して回り、そのかいあって賛成の声が強くなったという(刑部芳則『古関裕而――流行作曲家と激動の昭和』中公新書)。結果的にその起用は吉と出た。
勝利へ導く「紺碧の空」
「紺碧の空」は1931年6月13日、東京六大学野球・
この試合では7回表、同点に追いついた慶應がエース・水原茂をマウンドに送った。だが、早稲田は水原の思わぬ乱調にも助けられ、
ここから形勢は早稲田に傾き、続く3回戦にも勝利し、2勝1敗で慶應を久々に下した(ただし六大学野球全体では、勝率により慶應が優勝)。以来、「紺碧の空」は既存の応援歌を押しのけて早大生に愛唱されるようになり、現在にいたっている。
古関にとっても、これが初のヒット曲となる。1931年10月にはレコードもリリースされた。もっとも、すぐに作曲家としての成功に結びついたわけではなく、コロムビアレコードとは契約解除の危機さえあった。
このとき会社の文芸部長の家へ古関に同行した妻・金子は、第一子を妊娠中の身ながら「かならずコロムビアに恩返しします」などと切々と訴えて、夫を救ったという(辻田真佐憲『古関裕而の昭和史 国民を背負った作曲家』文春新書)。
それでも古関が人気作曲家の仲間入りを果たすには、1935年の「船頭可愛や」の大ヒットまで待たねばならなかった。
応援団長・高山三夫の熱い思い
ところで、「紺碧の空」の誕生をめぐっては、こんな裏話も伝えられている。
応援歌の歌詞公募での選者のひとり、
だが、西条のこの言葉に応援部の面々はカチンときたらしい。高山三夫という学生はカッとなって「早稲田に生きる者が金銭的に図るとは何事ですか」と一喝したという(『鐘よ鳴り響け』)。
この高山について、古関の自伝などでは応援団の「副団長」と書かれているが、『行動・熱血の63年 高山三夫のプロフィール』(私家版)所収の年譜によれば、1931年当時、早大商学部の3年生だった彼は応援団長に就任していた。高山は1908年生まれで、古関よりも1つ上ということになる。
『エール』に登場する応援団長の田中は訛りから察するに九州出身のようだが、高山も福岡出身で、隣県の大分・日田中学(現・日田高校)を卒業後、上京すると第二早稲田高等学院を経て早大に入学している。
その点は高山をモチーフにしていると思われるものの、それ以外の設定やストーリー……田中が旧制中学時代に一緒に甲子園をめざした親友から、ある事件のあとで言われた一言をきっかけに早稲田の応援団に入ったという話(これに心を打たれて裕一は「紺碧の空」を完成させる)などは、ほぼフィクションだろう。