2020.08.10

タモリの無名時代と早稲田「紺碧の空」の意外な接点

朝ドラ『エール』外伝

高山とタモリの意外な関係

現実の高山は1932年に大学を卒業すると、帰郷して福岡日日新聞社(戦時中に九州日報社と合併して西日本新聞社となる)に入社し、戦後は全九州一周各県対抗自転車競走大会や西日本巡回移動大動物園など大規模な事業に多数かかわった。

1964年に定年退職後は西日本新聞社の嘱託となり、特派員としてたびたび世界各地を回ってもいる。

高山は新聞社勤務のかたわら、他人への世話も惜しまなかった。毎朝出勤前には地元の人たちの“陳情”に応じていたほか、元横綱の双葉山、作曲家の中村八大や歌手の村田英雄といった九州にゆかりのある人々を支援するなど、まさしく地元の名士ともいうべき存在だった。

そんな彼と深いかかわりを持った人物のなかには、無名時代のタモリがいる。その出会いはつまびらかではないが、高山が早大校友会福岡支部の幹事長などを務めていたことから察するに、おそらくはその関係で知り合ったのではないだろうか。

タモリは一浪して1965年に早大に入学するも、モダンジャズ研究会の活動に熱中するあまり除籍となる。しばらくして郷里の福岡に戻ると、1970年に朝日生命に入社。翌1971年秋には、26歳にして会社の同僚だった2歳上の女性と結婚、このとき媒酌人を務めたのが高山だった。だが、同年11月に高山は62歳で亡くなっている。

タモリの力を見抜いた高山の慧眼

翌1972年、タモリは、高山が中学時代をすごした日田市のボウリング場に転職した。このボウリング場はもともと日田観光開発という会社が経営していたもので、同社が雅叙園観光という当時全国展開していた総合レジャー・エンターテインメント企業に吸収合併されるにあたり、リニューアルされることになった。

このとき雅叙園観光社長の松尾國三に、高山は以前より何かにつけて世話をしていた縁から、ボウリング場の経営を任せられる人物はいないかと相談され、推薦したのがタモリだったという。

拙著『タモリと戦後ニッポン』(講談社現代新書)にも書いたように、ボウリング場でタモリは支配人にまで出世し、12人の従業員の先頭に立って八面六臂の働きを見せ、収益もしっかりあげていたという。

そして1年半ほどして再び福岡に呼び戻され、高山の長男・博光(現・福岡市議会議員)の開業したフルーツパーラーのバーテンダーに転身した。

このころにはタモリは、山下洋輔たちジャズミュージシャンが福岡を公演に訪れるたび、一緒に遊ぶ仲となっており、しきりに上京を勧められていた。彼がついに決意して東京に旅立ったのは、バーテンダーになった翌年、1975年のことである。

タモリも書いた早大応援歌

なお、早大では戦後も応援歌が、永六輔や青島幸男といった名だたるOBの作詞によりいくつもつくられてきた。

タモリも芸能界にデビュー後、1980年に依頼を受けて「ザ・チャンス」という28番目の応援歌を書いた(作曲は早大ハイ・ソサエティ・オーケストラ1期生の岸田哲)。

彼はこのとき、《『紺碧の空』ができた時の応援団長だった高山三夫さんは、個人的に大変お世話になった方なので、私に依頼がきた時には、なにか不思議な因縁の様なものを感じた次第です》という言葉を残している(『サンデー毎日』1980年11月16日号)。

いまにして思えば、大学をやめて、いわば都落ちしてきた森田一義という青年に見どころを感じ、大きな仕事を任せた高山三夫は慧眼というしかない。

その懐の大きさは、ひょっとすると、後年、『笑っていいとも!』で自分よりずっと若いタレントたちに番組の進行を任せたりしたタモリにも受け継がれているのではないだろうか。

『エール』の放送再開がいつになるのかは、本稿を書いている8月9日の時点では、まだ発表されていない。再開後にもっとも気になるのは、現実の古関裕而が戦時中に多くの戦時歌謡・軍歌を手がけたという事実を、ドラマではどう扱うのかということだ。

放送休止前の『エール』にはコントめいた展開も目立ち、そこが筆者にはちょっと気になったのだが、再開されたのち、音楽に生きる主人公夫婦と戦争をどんなふうに描くかで、本作の真の評価は決まるはずである。

ちょうど今月中には戦後75年を迎え、終戦の1週間後に生まれたタモリもまもなく75歳になろうとしている。戦争の記憶がもはや忘れ去られようとしているいまだからこそ、『エール』にはいやが上にも期待は高まる。(以上、文中敬称略)