また、ワシントンDCにある国立米海軍博物館の原爆関係の展示物のプレートにはこう記されているという。
「広島と長崎の原爆投下による莫大な破壊と13万5000人の死者は日本軍にほとんど影響を与えなかった。しかし、ソ連の満州侵攻が彼らの考えを変えた」
当時、連合国側も、ソ連の参戦が日本を降伏に導くと読んでいた。
連合国側の諜報機関は、同年4月11日、「ソ連が参戦したら、日本人は敗戦は絶対に避けられないと気づくだろう」という予測を出していたという。
ポツダム会談で話されたこと
また、ソ連は同年2月、米国および英国と、ドイツ降伏の約3ヶ月後に対日参戦するというヤルタ協定を交わしていたが、アメリカ、ソ連、イギリスが戦後処理を話し合った「ポツダム会談」が行われた7月17日、スターリンと会合し、参戦の確約を得たトルーマンは、同日の日記に「スターリンは8月15日、ジャップとの戦争に参戦する。そうなった時、ジャップを終わりだ」と書き、その翌日、妻にも手紙で「戦争は今や1年早く終結するだろう。子供たちが殺されることがなくなる」と伝えていたことからも、連合国側が、ソ連参戦が終戦へと導くと考えていたことは明らかだというのだ。
すでにソ連の参戦確約により日本の降伏が確実視されていたのであるから、「歴史修正主義」的な歴史家たちの見方では、戦争終結のために原爆を投下する必要はなかったのである。
実際、歴史家らは、ドワイト・アイゼンハワー、ダグラス・マッカーサー、ウィリアム・リーヒなど1945年時の米軍最高幹部8人のうち7人が、原爆使用について「軍事的に不必要であったか道徳的に非難すべきことだった、あるいはその両方だった」と述べていたと主張している。
中でも、アメリカ海軍初の元帥リーヒ氏は回顧録の中で「日本はすでに負け戦さをしており、降伏の準備ができていた。広島と長崎での残酷な兵器の使用は、対日戦の物理的な助けには全くならなかった」と記しているという。