他人との違いに過敏な現代社会
平等化した社会において、人が自分と他者の違いに敏感になると指摘したのは、フランスの思想家トクヴィルである(『アメリカのデモクラシー』)。人々が身分の壁によって隔てられていた時代、個々の人間をめぐる境遇の違いは、ある意味で自明であった。自分とは違う種類の人だと思えば、貴族や主人に従っていても劣等感は生じない。むしろそのような高貴な人々に仕えることは、誇りや自負心にもつながったのである。

これに対し、ひとたび平等化が進むと、むしろ人との違いが気になるようになる。同じ人間なのに、なぜあの人はああで、自分はこうなのか。他の人とのわずかな差異にどうしても敏感になってしまうのである。
はたしてそのような境遇の違いは正当なのか。努力の違いか、能力の違いか、与えられた環境の違いか、あるいは運の違いか……、このような人々の思いは差別を批判し、特権を否定する原動力となる一方、嫉妬の感情や、恵まれた人を引きずり下ろしたいという願望にもつながる。
ある意味で、現在の日本社会は「平等化」の進んだ社会であり、人々の間の違いをめぐる感覚は鋭敏さを増す一方である。そのような環境において、人々はつねに優越感と劣等感の微妙なゆらぎの中で生きている。それを刺激するものに激しく反応するのは、そのせいだろう。
しかも低成長が長く続き、停滞感が漂うなか、そのような人々の感情はしばしば行き場を失い、内向する。突出した人は良きにつけ悪しきにつけ注目の対象となり、一時は持ち上げられた人が急に攻撃の対象となることも珍しくない。
そのような現代日本において、人々の劣等感を刺激せず、独特なセレブ感ゆえに嫉妬の対象になりにくい安倍首相は、どこか時代に適合的なのかもしれない。
真の民主主義を求めて
しかし、トクヴィルは、そのように他人との違いに敏感になった人々が、同時に社会の多数派の意見に対し極めて従順であるとも指摘している。世の中に特別な人はいない、自分も多数の人々と同じ人間だと考える平等社会の個人は、そのような個人の集合である社会のマジョリティに抵抗するのが、どうしても難しい。
身分制社会において、人々は属する階層や身分の常識に固執することはあっても、社会の多数派に左右されることは稀であった。これに対し、平等化され、自由になったはずの個人の方が、むしろ自分と同じような人間から成る社会の「声」に動かされやすいのである。
そうだとすれば、「多くの市井の人々の目線」を気にして「大衆的」であり、時に「民意に耳を傾けすぎる」安倍政権は、その意味でも現代日本の精神的傾向に合致していると言えるかもしれない。安倍政権は、右派的なイデオロギーや独自のアベノミクスを除けば、多くの場合、節操がないくらい世の多数派の声に対し敏感であった(ただし、それはしばしば、つまみ食い的であった)。
もちろん、それが真に民主主義的であるとは言えない。すでに指摘したような安倍政権の問題点は、けっして民主主義の基礎を強化するものではなかった。平等な個人の参加意識と、それに基づく判断力や責任感こそが民主主義の本来あるべき姿だとすれば(筆者はこのことを、近著『民主主義とは何か』(講談社現代新書)で論じている)、現代日本の民主主義は、そのネガの部分を極大化した陰画にほかならない。
安倍政権が終わりを迎えた今日、日本の民主主義をあらためて考え直すきっかけとすべきではなかろうか。

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