竹中氏の政治的立場は、批判的なニュアンスを込めて「新自由主義的」と形容されることが多い。これは一般的には「小さい政府」を志向することだと理解されている。
しかし、すでに述べたように、竹中氏は小泉政権で閣僚を務めていた時期から、「構造改革」に、単に「国家の役割の縮小」を主張するだけではなく、終身雇用制度や特定郵便局制度、さらには「自治」の名を借りて改革を拒む大学やマスコミの談合体質にいたるまで、日本社会に残る様々な「古い慣習」や中間団体を「既得権益」としてその解体を目指す、という性格を濃厚にもっていた。
竹中氏が中国のメディアに登場する際には、「日本は居心地が良すぎて(本当の)改革ができない」、というフレーズを繰り返し用いている。
すでに述べたようにフィナンシャル・タイムスの中国語版の特約記者の徐瑾氏が日本滞在中に竹中氏にインタビューした記事のタイトルは「日本は心地よすぎて変われない」である(徐、2017)。そのインタビューにおいて、竹中氏は以下の様に述べている。
小泉政権当時の状況はどうだったか考えてみましょう。なぜあんなに支持率が高かったのでしょうか? 当時の状況において、人々が改革を必要としていたからです。 にもかかわらず、一度改革が実を結び、人々が満足してしまうと、社会が心地よいものになりすぎて、次第に改革したくなくなってしまうのです。
解体される中間団体と日本社会のゆくえ
それにしても、竹中氏が攻撃してやまない、日本社会の「心地よさ」をもたらしているものとは果たして何だろうか。前田健太郎氏がその著書、『市民を雇わない国家』で指摘するように、日本の労働人口当たりの公務員数は、実はアメリカなどと比べてもかなり少ない(前田、2014)ことを考えれば、「国家の保護」が快適さをもたらしている、という認識は現実的なものとは言えないだろう。
むしろ、「様々な古い慣行」の根っこにある、さまざまな中間団体の存在こそが、「心地よさ」をもたらしているのであり、それを徹底的に解体しなければ「改革」は実現しない、というのが竹中氏の本音だというのが自然な見方ではないだろうか。
そして、そのような古い慣習や、中間団体を一掃しようとするためには、それを実現する「強い国家」の存在が要請されることになる。
このことを明確に指摘しているのが10年以上前に邦訳が出版されたデヴィッド・ハーヴェイの『新自由主義』という著作である(ハーヴェイ、2007)。ハーヴェイによれば、「新自由主義とは何よりも、強力な私的所有権、自由市場、自由貿易を特徴とする制度的枠組みの範囲内で個々人の企業活動の自由とその能力とが無制約に発揮されることによって人類の富と福利が最も増大する、と主張する政治的実践の理論である」。また、「国家の役割は、こうした実践にふさわしい制度的枠組みを創出し維持することである」とされる。