イレッサ訴訟とその後
イレッサの発売から3ヵ月も経たない10月15日、イレッサによると思われた肺障害が多発し、11人の死亡についてはイレッサとの「関連性を否定できない」として、製造販売元から緊急安全性情報が出された。
イレッサを使っていた患者と遺族が国と製薬会社を相手取って訴訟を起こした。この訴訟は2013年に原告全面敗訴の結果に終わる。イレッサの危険性ははじめから添付文書に記載されていたし、専門医には周知されていたと。なぜ周知されていたはずの副作用があとから騒ぎになったのかについては、このように言われることになった。
当時、多くのケースで専門医以外の医師が処方していました。「夢の新薬」ともてはやされたために、抗がん剤治療に耐えられそうにない、全身状態が悪い人にまで安易に使われてしまいました。
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極端な例では、歯科医が処方していたこともありました。肺がんに承認された薬なのに、乳がんや子宮がんの患者さんから「イレッサを使いたい」と言われて処方した例までありました。
(…)
イレッサという薬が悪いのではなく、実は正しい使い方を守らなかった医師が悪かったのです。
(勝俣範之『医療否定本の嘘』電子版、強調は原文ママ)
いずれにせよ、イレッサに対する期待は過大だった。そもそもイレッサは、癌患者の余命を伸ばす効果があるかどうかは不明なまま「非小細胞肺癌(手術不能又は再発例)」を効能・効果として承認されていたのだった。
そして、そんな効果はなかった。2005年の報告で、非小細胞肺癌に対してほかの抗癌剤が効かなかったか副作用で続けられなくなった患者を対象として、イレッサかプラセボ(偽薬)を使って比較すると、生存期間に差はなかったとされた。プラセボと差がないというのは、生存期間で見るかぎり、薬としての効果がないということだ。
繰り返すが、癌が小さくなったからといって、余命が伸びるとは限らないのだ。
イレッサ奇蹟の復活、そのしくみ
ところがこれでは終わらなかった。イレッサは生き延び、いまも使われている。何があったのか。
上に挙げた2005年の報告では、対象患者の一部(たとえば女性、非喫煙者、アジア人)に絞って比較すると、イレッサにも効果があるように見えた。そこで、最初から効きそうな人だけを対象とした試験が改めて行われ、従来の薬(カルボプラチンとパクリタキセル)に比べて「無増悪生存期間」が伸びる、すなわち余命は伸びないが癌の増大が遅くなるという結果が得られた。中でもEGFR遺伝子の変異がある人ではイレッサで無増悪生存期間が伸びていたが、変異がない人では縮んでいた。
この結果を受けて、イレッサの効能・効果は「EGFR遺伝子変異陽性の手術不能又は再発非小細胞肺癌」と書き換えられた。「EGFR遺伝子変異陽性」という条件が加わったのだ。
ここまでの顛末を大まかに振り返ってみよう。イレッサを多くの人に使ってみたところ、効果ははっきりせず、重い副作用が出た。そこで効きそうな人だけを選んで使うと、効いているようだった。図で表すとこうだ(図1)。

この図は説明のために細部を省略し、違いを強調している。量的にはまったく事実と対応していない。だが基本的なしくみはわかると思う。
上の図でも下の図でも、イレッサが効いた人の数は変わらない。ただイレッサを使った人の数が下の図のほうが少ないので、いわば平均点が上がる。その結果、上の図では全体として「効果があるのかないのかわからない」という程度だったところが、下の図だと「効果あり」と判定されることも考えられる。
図のように遺伝子検査に基づいて薬を使う人を選ぶというやりかたは、プレシジョン・メディシンそのものだ。イレッサはプレシジョン・メディシンの概念によって救われた。多くの人に使うと薄まって見えなくなるほどのわずかな効果が、効きそうにない人をあらかじめ排除することで検出可能になった。
ところでイレッサ以前の薬は、たとえばカルボプラチンやパクリタキセルは、遺伝子検査などしなくても多くの人に使えて効果を示している。中には効きやすい人と効きにくい人がいるのかもしれないが、効きにくい人を含んだ雑多な集団の平均点としても効果を示し続け、使われ続けている。
遺伝子検査で対象者を絞り込まないと平均点が下がって無効に近くなってしまう薬と、遺伝子検査などしなくても有効とわかる薬。どちらがいい薬だろうか?
プレシジョン・メディシンという言葉は、ひっくり返っている。