以下の文章は、日本学術会議会員任命をめぐる騒ぎが公になる前に書かれたものである。日本の民主主義の危機がこれほど早く公然化するとは思っていなかった。
この事件が、そして本書(『民主主義とは何か』)が、多くの人が民主主義を選び直すきっかけになることを心から願っている。(10月10日附記)
忘れられない会話
現代の日本において民主主義を考えるにあたって、忘れられない会話がある。
だいぶ前のことになるが、企業や官庁において指導的地位にある方々(いわゆる「エラい人」)の非公式の会合に参加したことがある。
ある方は「企業においてはトップがきちんと判断し、下はそれに従えばいい。トップは結果によって判断される。ビジネスの世界に民主主義が入り込む余地はない」と断言された。
日本の企業において、トップはその業績に対して本当に責任を取っているのだろうかという気もしたが、黙っていた。
またある人は「中国を見ていると、民主的な体制とは言えないが、それだけに決断が早い。決まるとすぐ実行される。その中国が経済的にもこれだけ成功している以上、もはや民主主義を擁護するだけの自信が自分にはない」と口にされた。
正直な感想だとは思ったが、日本社会において責任ある地位にある人にそう言われると、不安な気分になった。そして、こういう会話が、日本の至るところでなされているのだろうなと思った。
おそらく、その場にいた人にとって、民主主義とは、多くの人がいろいろなことを言って、誰も責任を取らず、決めるべきことも決められず時間ばかりを浪費する手続きなのだろう。
そして日本はそのような悪しき民主主義によって手足を縛られ、何も決められないとして苛立ちを感じているのだろう。
そのことはよくわかったが、同じ人が、違う場所では「民主主義的に多数決で決定したのだから、従ってもらう」などと言っている姿が容易に想像できるだけに、なんだか民主主義が気の毒にも感じられた。
感染拡大と民主主義の危機
しかし、民主主義とはただひたすら時間がかかり、何も決定できない手続きなのだろうか。みんなが勝手なことを言って、誰も責任を取らないことを言うのだろうか。
あるいは逆に、民主的な決定の名の下に、異論を封じ、少数派を抑圧する口実に過ぎないのだろうか。自分としては、そのいずれに対しても「違う!」と言いたい、そんな思いを抱えて、時間ばかりが流れていった。
ところが、今年になって、新型コロナウイルスの感染拡大とともに、同じような会話を再び耳にするようになった。
「危機においては、迅速な決定が必要だ。民主的な手続きに従って、時間を浪費するわけにはいかない。危機に民主主義は相応しくない」
「中国を見よ。住民に有無を言わせずロックダウンを実行し、さらに個人のプライバシーを無視してでも行動追跡アプリを開発し、見事に感染拡大を抑え込んだではないか」
またか、という思いを抱きつつ、いよいよ民主主義について、自分なりの考えを世に示していく必要があるという思いを新たにした。

ただし、単に「新型コロナウイルスと民主主義」という形で議論するのでは、不十分にも感じられた(実際、この間、そのようなテーマで取材を受け、解説記事もいくつか執筆したのだが)。
むしろ民主主義についてより本質的に、歴史的な視野の広がりを持って論じたい。そう思って上梓したのが本書『民主主義とは何か』(講談社現代新書)である。