経済学は、なぜ「人間の幸福」に役立たなくなってしまったのか?

「自由」vs「正義」の経済思想史
中山 智香子 プロフィール

しかし人は生きている限り、ずっと価値を選び取り続ける、むしろ価値観のかたまりである。自分では選ばないつもりでいても、結果的にある一つの選択肢を選んでしまっている場合もある。と言うか、「選ばない」こともまた一つの「選択」なのであって、選ばずに偏らないでいることなど、そもそも原理的に不可能なのだ

 

価値観の激しい対立や論争というこれまでの歴史から、双方の意見を聞きつつどちらにも与しない「中立」の立場があたかもあるかのように信じられてきた。たしかに、相手を切りつけたり相手から切りつけられたりと刺し違えるような面倒なことはなしに済ませたいという気持ちもわからなくもない。しかし多少の摩擦は常にある。誰しもがそれぞれの価値観の方向に偏っているのであって、自分と完全に同じである他者などそもそも存在しえないのだ。

とは言え、他者を抹殺することもない。また逆に過剰に「博愛的」な賢しい優等生を気どる必要もない。だいたい優等生という言葉には、どこか権威への追従の臭いがつきまとう。数量的正確さがあれば「正しい」と信じるのは、実は根拠なき願望にすぎず、優等生がそれにすがるとすれば、それはかれや彼女が人間をわからないからに他ならない。

さらには、人生のことがわからないという奇妙な劣等感の裏返しから、生の尊厳を貶める必要もないはずだ。あえて繰り返すなら、そもそも自然科学(サイエンス)や論理の世界自体が普遍性、絶対性からはとっくに脱皮しているのだ。もっとも、最先端の自然科学の後追いをする必要もないだろうが。

ところが、右肩上がりの前進のみをよしとする進歩主義は、人間を薄っぺらにしてしまった。人間は、先ほどもいったように、かれや彼女が食べるところのものである。便利さ、ゆたかさ、大量生産を求める中で、食べることの手軽さが追求され、甚大な影響がもたらされた。なぜか近隣で生産、収穫された地場の食材や無農薬野菜が、輸送費や農薬代のかかった輸入品より高価格な高級品になっている。貧しい者は、賞味期限の切れたコンビニ弁当をあてがわれて感謝すべきだという。それを食品廃棄の削減としてエコロジーの指標にでもカウントするのか。

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健康やいのちの重さもカネ次第なのか。社会運動家でラッパーの、クルギの言葉を借りれば、もううんざりだ(Y’en a Marre)、こんなことは。

経済学の生誕以来、ゆたかさを求めて邁進してきた営みは、長い時間をかけ、結果的に良かれと願ったものとは逆のものを生み出しつづけてきた、そう言わざるを得ないだろう。みずからを安く値踏みし、科学を模して形式的整合性だけを求める緩みが、そこになかったとはいい難い。残念ながら経済学はいつしか堕落し、狭量になり下がってしまったのだ。

とはいえ、そんな残念な流れに圧し潰されて、絶望している場合ではもはやない。かつては経済学にも気高きこころざしを胸にいだき、理念を熱く論じ合った時代があった。それが、どこで分ターニング・ポイント岐点を曲がり損ね、何が致命的な一歩を後押ししたのか。「たらいの水とともに赤子を流してしまう」ことにならないように、かずかずの思想の歩みを、慎重に価値判断しながら、たどってみなければならない。

緩んだ学問に終止符を。

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