一攫千金を夢見て「クジラの町」から世界へ渡った日本人移民の「戦争の記憶」

アメリカでは「反日感情」が高まり…
ヒトミ☆クバーナ プロフィール

戦前から高まっていた「反日感情」

戦時中の日本の様子は、多くの書籍や映画に記録されている。では、同じ時代をアメリカで過ごしていた人達はどうなったのだろうか。

開戦後、ターミナル島に住む3,000人の日系人はスパイ容疑をかけられ、ほぼ全員が強制収容所に送られた。カリフォルニア州では、そのかなり前から反日感情が高まっていたという。1979年発行の「太地町史」によると、日本人排斥運動は明治中頃から見られたとし、その理由を3つ述べている。

第一に、人種差別が根源にあること。第二に、当初は低賃金でまじめに働く日本人労働者は重宝されたが、やがてアメリカ人の仕事を日本人が圧迫する結果となったこと。そして第三に、日清・日露戦争の勝利で日本の国力をアメリカが警戒し始めたこと、とある。

当時の辛かった話を伝え聞いている人は少ない。戦前のアメリカの空気を知るため、太地町歴史資料室の学芸員で、移民に関する調査を行っている櫻井敬人さん(49歳)に話を聞いた。

「その頃の反日感情というのは、今アメリカでメキシコ人に起こっていることや、日本国内の外国人排斥感情と、基本的には同じだと思います。低賃金の外国人に仕事を奪われるんじゃないか、社会保障の税金を外国人には使わないで欲しい、といった考えです」

排日の機運は年々高まり、アメリカ在住者の父母や妻子以外は新たに入国できなくなった。そこで渡米する方法として流行ったのが、日本にいながらアメリカのビザが取得できる写真結婚だ。また、それまでは移民会社を介して合法的に行われていた渡航が、密航ブローカーにお金を払って違法に入国する方法へと変わっていった。

そんな状況だったからこそ、地理的に孤立したターミナル島の日本人コミュニティは発展した。島内の治安はよく、両親が働いている間、子ども達は自由にビーチで遊ぶことができた。

島には公立小学校もあった。教師はみなアメリカ人で、英語でアメリカ式の教育が行われた。教師たちは1世の父母にも英語を教えてくれるなど親切だったという。外の空気とは裏腹に、島では日本とアメリカ両方の祝日を祝っていた。

1935年、ターミナル島近くで開催された在米太地人会のピクニック写真。2世を含む285名が写っている(太地町公民館に展示)
 

平和な島の生活は、真珠湾攻撃で終わることとなった。その日のうちに1世の男たちはFBIに連行され、翌年には日系移民11万人が、アメリカ市民権のあるなしに関わらず収容所入りを余儀なくされる。家財道具は二束三文で売り払われ、ターミナル島の日本人居住地は跡形もなく壊された。

櫻井さんは「日系人の中には、戦争で日本が勝つと信じた人もいれば、アメリカの国力をよく知っているが故に日本の勝利を疑う人もありました。移民1世と、アメリカ生まれの2世との間に考えの違いもあったでしょう。戦時中、在米日系人の間で衝突が起きるような状況に追い込まれていったのです」と話す。

反日感情は戦後も続き、収容所を出た多くの日系人は漁業に戻ることができず、ゼロからの出発となった。

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