売った場所は、突如焼け跡に生まれた、安田組マーケット(「ラッキーストリート」とも)と呼ばれたバラック街だった。ヤミ市である。これがのち、思い出横丁となる。
戦中の空襲で一面焼け野原となった新宿駅周辺は、終戦するといくつかのテキヤが差配するヤミ市ができ、次第にふくれあがっていった。

西側は、安田朝信親分率いる安田組が西口の真ん前から青梅街道までビッシリとバラックを建て、支配していた。村上さんは言葉を継ぐ。
「大正生まれの初代の店主たちには、復員兵もいたし、引揚者もいたよ」
中には大陸で財を成した人もいたが、すべてを戦争がかき消した。思い出横丁創成期、戦後第一世代の店主たちの中には、敗戦により旧植民地から裸一貫で引き揚げた人もいれば、戦災で職を失った人もいた。彼らはテキヤの親分から小さな店の権利を買い、戦後を生き直そうとしたのだった。戦争でそれまでの生活基盤全てを失った人々がヤミ市の一杯飲み屋で再出発した例は、私もあちこちの盛り場で聞いた。
村上さんの父は戦中、多数の軍用機を作った中島飛行機のエンジニアだったが、GHQの解散命令により失職。地方の農家から米を買い付けてヤミ市で卸す、いわゆる「カツギヤ」をやってカネを貯め、横丁内に店をもった。

店の権利を買う時、「もし二時間経っても帰らぬ時は警察に連絡してくれ」と言い残し、村上さんの父と横丁の組合幹部が一緒に大ガード脇にあった安田組事務所に向かったという。
と、ここで余談をひとつ。「なんで思い出横丁はヤキトリ屋が多いのか」。これも戦後由来だと思う。当時の「仕入れのしやすさ」に理由があった。