高瀬氏が言うように賽銭泥棒は「SOSのサイン」とも解釈できる。確かに宗教者も一般人と多くは変わらない感覚を持ち合わせていることだろう。誰しも窃盗の被害にはあいたくないはずだ。しかし、筆者は宗教者だからこそ、困った人を支えようとする矜持を持っていてほしいと期待してしまう。
コミュニティ・ソーシャルワーカーとして著名な勝部麗子氏(豊中市社会福祉協議会)は、(犯罪に走ってしまうような)「困った人」は「困っている人」だと捉え直すことの重要性を指摘するが、こうした視点は宗教者にこそ持ち合わせていてほしい。再び高瀬氏の言葉を紹介しよう。
「行政サービスが充実し、専門分化した福祉支援が発達すると、それまで寺社教会に助けを求めていた人も、そちらを利用するようになります。宗教者も生活の困りごとは『そちら(福祉)へどうぞ』となり、雑多なニーズに対処する術を失ってしまったのではないかと。その結果、現れた『問題行動』の背景にまで思慮が至らなくなってしまったのではないかと思います。
現代は生活課題を抱えた人、困難を抱えた人は見えづらく複雑化しています。専門分化した支援からこぼれ落ちるケースもあります。支援の窓口に自ら行ける人も限られていると聞きます。社会福祉制度の隙間に陥っている人や声さえ上げられない人に対して、どこかでサインを見つけ、『大丈夫、まだ間に合うよ』と声をかける誰かが今の社会には必要です。宗教施設が『どこか』であってほしいし、宗教者がその『誰か』のひとりになるべきではないかと思っています」

このような高瀬氏の主張は理想論であり、現実味がないと思う人がいるかもしれないが、宗教者がすべて解決する必要は決してない。全部自分たちで対処しようとすると負担が重すぎる。
むしろ大事なのは神社やお寺といった宗教施設が地域のセーフティネットを構成する社会資源の一つになれば良いという発想だ。宗教者が一定の福祉的な知識と支援のためのネットワークを持っていれば、神社やお寺といった宗教施設は見えづらい困窮者・孤立者を支えるセーフティネットになるのではないだろうか。