日本メディアの「オバマ回顧録」の翻訳、その訳文がはらむ「危険性」を考える
政治的衝突の火種になりかねない翻訳こそ「政治の場」
翻訳というと、どんな役割があると思われるだろうか?
語学や文学、せいぜい各国のおつきあいの際に必要なツール程度にみなされてきたかもしれない。じつは翻訳とはもろに政治の場であり、戦場であり、知力の武器そのものなのだ。
たとえば、明治時代、悪名高い日英間の不平等条約をなんとか修正するために、イギリスで『源氏物語』を一部英語に訳して出版した日本人がいた。ジャーナリストであり政治家であった末松謙澄(すえまつ・けんちょう)である。有名なアーサー・ウェイリーの英訳 The Tale of Genjiが二十世紀初頭に登場する以前のこと。

末松謙澄はどうしてそんな難事に挑んだのかといえば、日本が千年も昔から高度に発達した文明国であることを、『源氏物語』を通じて示すためだったという。それはある意味、正しい攻略法だっただろう。
事実、二十世紀初頭のモダニズム期にウェイリーの全訳を介して英語版の『源氏物語』と出会った英米の読者は、そこに描かれた十一世紀の日本の文化文明のみならず、その物語の書法や話法や心理描写が洗練を極めていることに瞠目し、ヴァージニア・ウルフは「これはもはや現代小説だ!」と絶賛した。
翻訳はそんな政治交渉の道具にもなったし、あるいは、普仏(プロイセン王国・フランス帝国)戦争の引き金になったのも、翻訳だと言われている。adjunctというドイツ語で「副官」を意味する語があるが、まったく同じ綴りでフランス語では「曹長」を指す。こういう同綴異義の言葉どうしを、語学用語では「にせの友達(フォザミ)」と呼ぶ。
ドイツのほうは爵位をもつ地位の高い「副官」を遣わしたのに、adjunctがメッセージを運んできたと知ったフランスでは、階級の低い「曹長」ごときを寄越したのかと怒り心頭に発し、ついに戦争の火ぶたが切られたとか。ところが、ここには、ビスマルクがフランス側の戦意を煽るために、文書の”編集”、あるいは”故意の誤訳”を行っていたという説もある。