ブレーメンの男
1914年8月1日、当時アミアンの高校で教えながら博士論文を準備していたブロックは、大戦の開始に伴って応召し、第272歩兵連隊に配属された。
高等師範学校卒業、アグレガシオン(高等教員資格)取得、ドイツ留学を経てティエール財団奨学生選抜と順調にキャリアを進めていたブロックの学業は、ここで予想外の中断を経験することとなる。
エリートとして教育を受けたブロックも、戦場では一兵卒として最前線を経験した。入営以来、ブロックは日誌を欠かさず付け、自分の体験について省察するよう努めた。戦場においてもブロックは歴史家であることを止めなかったのだ。
1917年9月7日付の日誌には「ブレーメンの男(炊事班によるとブレーヌ)」という走り書きが確認できる。一体どういうことなのだろうか。
前月末に中尉に昇進し、ランスとソワソンの中間に設営された指揮所で諜報任務に従事していたブロックは、この日、敵軍の戦闘計画を割り出すため、シュヴルニーという村で一人の捕虜を尋問した。その男はブレーメン出身のドイツ兵で、尋問の後、護衛とともに後方に移送された。
間もなく、砲兵や輜重兵のあいだに奇妙な噂が飛び交った。
「ドイツ人め、フランス中にスパイを放っていたとは、大した奴だ! シュヴルニーで捕まえた捕虜の正体を知っているか? あの野郎、戦前は隣町のブレーヌで商店を開いていたらしいぞ!」
もちろん、この噂は全くのデマだ。おそらく「ブレーメン」――フランス語では「ブレーム」――という地名が兵士の間で「ブレーヌ」と間違って伝わったのだろう。
この一見些細な出来事は、ブロックに後々まで強い印象を残すとともに、彼の以後の研究に決定的な影響を及ぼすこととなる。
「今行っている農村の研究が終わったら、ランス大聖堂で行われた国王聖別式において「塗油の儀礼」が持った役割を検討してみたいと思っています」――ブロックは終戦の直前、ヴォージュの山間を散策しながら、中世史家シャルル=エドモン・ペランにそう漏らしたという。
当時、権威ある学界で正統とされていたのは伝統的な政治史、あるいは新興の社会経済史だった。儀礼や信仰などといった文化的事象の研究はまだ一般的ではなかった。過酷な戦場経験を経て、歴史家の胸中には新たな問題意識の萌芽が兆していた。