2020.12.08
# 戦争

真珠湾攻撃で零戦隊を率いた指揮官が語り遺した「日本人不信」の理由

「あれが犬死にだったというのか」
神立 尚紀 プロフィール

つくづく嫌になった日本人の変わり身の早さ

そして8月15日正午、戦争終結を告げる天皇の玉音放送。

「それがね、ラジオの雑音が多くて、陛下のお言葉がよく聞き取れなかった。で、激励されたぐらいに思って、放送が終わってから、それじゃこれから訓練だ、と、平常通り訓練を始めたんです。ちょうどその日、宝塚歌劇団の月組が基地に慰問に来ていましたが、予定通り舞台をやってもらいました。

だんだん、戦争が終わりだ、ということはわかってきましたが、しかし、まだ停戦だ、と。交渉して和議が決裂したらまたやるんだ、そう思って訓練を続けていました。

厚木の三〇二空からも、抗戦の呼びかけの使者が来ましたね。フィリピンに飛ぶ降伏の軍使機を撃墜しろって言うから、そんな、日本の飛行機を墜とせるか、と一喝しましたが。

そうこうしている間に、高松宮(海軍大佐・昭和天皇の弟宮)の使者がやって来て、終戦は陛下の御意志であると。司令部からも飛行訓練をやめろ、と言ってきました。そして、五十嵐司令から、福知山にある可動機を全機、姫路基地に持ってこい、と命じられたんです」

8月21日のことである。進藤さんは、機銃弾を全弾装備して、いつでも戦える準備のできた13機の紫電改を率い、姫路基地に着陸した。

だが、姫路基地で、五十嵐中佐の口から出たのは、

「本日より休暇を与える。搭乗員は皆、一刻も早く帰郷せよ」

という、思いがけない命令だった――。

8月6日に原爆が投下された広島の街は、一面の焼け野原になっていた。進藤さんの生家は、爆心地から南東へ約2.8キロの距離にある。帰ってみると、爆風で壁が落ち、畳や建具も吹っ飛び、柱も「く」の字に折れ曲がったような状態だったが、蓮田の中の一軒家であったため類焼を免れ、何とか人が住める状態にまで片づけられていた。

厳格だった父が、目に涙を浮かべて、

「三郎、ご苦労さんじゃったなあ」

と迎えてくれたとき、初めて涙がでてきた。父子は、抱き合って長いこと泣いた。

それからしばらくは放心状態が続き、毎日、原爆の爆風でめちゃくちゃになった家の片づけをしたり、自宅から3キロほど南の宇品海岸で釣りをしたりして過ごした。

秋も深まったある日、いつものように生家近くの焼け跡を歩いていると、遊んでいた5、6人の小学校高学年とおぼしき子供たちが進藤さんの姿を認めて、

「見てみい、あいつは戦犯じゃ。戦犯が通りよる」

と石を投げつけてきた。真珠湾攻撃の頃には、進藤さんに憧憬のまなざしで敬礼をした少年たちである。「こら!」と怒鳴ると逃げ散っていったが、やるせない思いが残った。

広島に最初に進駐してきたのは、オーストラリア軍を中心に編成された英連邦軍である。進藤さんは、広島駅前で、進駐してきた豪州兵にぶら下がるように腕を組み、歩いていく日本人女性を見たとき、つくづく世の中がいやになった。この変わり身の早さ。

「それ以来、日本人というものがあんまり信じられなくなったんです」

つい昨日まで、積極的に軍人をもてはやし、戦争の後押しをしてきた新聞やラジオが、掌を返して、あたかも前々から戦争に反対であったかのような報道をする。周囲の人間を見ても、戦争中、威勢のいいことを言っていたものほど、その変節ぶりが著しい。

批判する相手(=陸海軍)が消滅して、身に危険のおよぶ心配がなくなってからの軍部批判の大合唱は、進藤さんには、時流におもねる卑怯な自己保身の術としか思えなかった。「卑怯者」は、いわゆる「進歩的文化人」や「戦後民主主義者」と呼ばれる者のなかに多くいて、敗戦にうちひしがれた世相に乗って世論をリードしていた。

「私は、自分はこれからの時代に生きてゆくべき人間ではないような気がしました。『生き残った』のではなく、『死に損なってしまった』という意識の方が強かった。自決することを考えましたが、あいにく武装解除されたので拳銃を持っていない。生命を絶つ方法をあれこれ考えているうち、終戦直前、生まれたばかりの長男に会いに疎開先の庄原へ行ったとき、差し出した人差指を小さな手で無心に握ってきた感触が甦り、死ねなくなってしまった。われながら情けない気がしました」

 

戦没者のことを犬死によばわりすることさえ、「進歩的」と称するインテリ層の間では流行していた。そんな言説を見聞きするたび、「何を言いやがる」と進藤さんは悔しかった。

直属の部下だけで、160名もの戦死者を出している。なかでも、昭和18(1943)年、ガダルカナル島をめぐる航空戦では、部下たちの最期を幾度も目の当たりにした。対空砲火を浴びて、ソロモンの海に飛沫を上げて突っ込んだ艦上爆撃機や、襲いかかる敵戦闘機から艦爆を守ろうと、自ら盾になって弾丸を受け、空中で火の玉となって爆発した零戦の姿を思い出すたび、あれが犬死にだというのか、と、やりきれない思いに涙があふれてきた。

進藤さんは、戦争のことは自分の胸の中に秘め、他人に話すことはなくなった。誰にもわかってもらえなくていい、ただこの世の一隅で、戦争で死んだ人たちのことを忘れずにいることが、「死に損なった」指揮官としての務めである、と思えるようにもなった。

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