――『伝統芸能の革命児たち』では、伯山さんの芸がまだ成熟していないことも、そのまま原稿に書いていますよね。それでも舞台に立ってやり切るのだと。
第二夜は『徳川天一坊』をぶつけたが、一之輔の『鼠穴』に圧倒された。それでも、あがいてみせることに意味がある。第三夜、松鯉一門から神田阿久鯉がゲストに迎えられ、『難波戦記~重成の最期』。講談の凄みは、姉弟子が充分に伝えてくれた。
それでも松之丞から目が離せない。十年目の「あがき」が、祭りの三夜をしめくくる最後のネタに収斂していく。(『伝統芸能の革命児たち』より引用)
そのことは、絶対に言わないといけないと思う。とくにマスコミが「100年に1人」とか「至高の芸」とか煽りすぎるんですよ。でも、講談の真髄はまだま奥のほうにあるし、本人だって絶対に「オレよりももっとすごい先生たちがいるから、そちらも聞いてくれ」と思っているはず。
とはいえ、ひとりの芸能者がひとつのジャンルをここまで活性化させるのを目の当たりにするのも、そうはないことで。こういう状況を目撃できるのは、とても幸せなことです。
途中の芸を見られることも、伝統芸能の面白さだと思うんですよ。他のエンタメだと、幕が開いたら、そこに完璧なものがあってほしいじゃないですか。でも伝統芸能では、修行途中のものを見守ることもある。それこそ、まだ3歳の子の舞台初御目見えとか。でも、その子がいつか名人になるかもしれない。未熟な前座が、下手なまま気づいたらベテランになっていることだってある(笑)。弟子をとるようになる人もいれば、やめてしまう人だっている。見る側も自分の人生と照らし合わせながら、長いスパンで楽しめるのが伝統芸能のよさじゃないかと。

――伯山さんもいつか現代との闘いの荷をおろし、彼のシブい芸が見られるかもしれない。そういう変化も面白いところなのでしょうか。
それを伯山さん自身も楽しみにしているんじゃないでしょうか。講談のスポークスマンといういまの自分のポジションを早く誰かに譲りたいはずですよ(笑)。そうしてくれたら自分はいくらでも、講談そのものの奥の間へと進めるんだと。
ただ、先日、野村萬斎さんの企画で、萬斎さんと伯山さんが対談をしたんです。そこで印象的なやり取りがありました。萬斎さんも狂言の世界で「現代」と闘っている方ですよね。そこで萬斎さんは、ここまで言ったような伯山さんの状況を理解した上で、現代との闘いはきっと死ぬまで終わらないんじゃないか、ということを暗に言っていたんです。
現代の観客と向き合うこと自体が、芸なんじゃないかと。つまり、芸を追求していくかぎりそこの荷を下ろすことはできない。萬斎さんは、自分の父親(野村万作)を見てそう思ったそうです。
伝統というリソースをフル活用して現代と向きあう。そのときジャンルの本質がよりくっきりと浮かび上がってくる。いち観客として、私もそういうことを感じています。