講談社現代新書『U 相模原に現れた世界の憂鬱な断面』では、映画監督・作家の森達也氏が、この事件、そして加害者の植松聖について、精神科医やジャーナリストらと語りあい、悩み、悶えながら、人間とは何か、その本質に迫った。今回は、本書から「序章」の一部を特別公開する。
植松聖との対話
制服を着た刑務官が面会室の扉を開ける。3畳ほどのスペースは中央を透明なアクリル板で区切られていて、こちら側にパイプ椅子が3つ置かれている。
月刊「創」の篠田博之編集長が右側の椅子に座り、僕はその左横に座った。ほぼ同じタイミングでアクリル板の向こう側の扉が開いた。年配の刑務官とともに入室してきた植松聖は、立ち上がりかけた僕と視線が合うと同時に小さく頭を下げた。
右手の小指には包帯が厚ぼったく巻かれている。初公判のときに嚙み切ろうとした小指だ。写真や報道からは何となく手足が長くて大柄な男をイメージしていたけれど、現れた植松は思っていたよりもずっと小柄だった。
「森さん。初めまして」と先に言ったのは植松だった。「お忙しいのにありがとうございます」と礼の言葉が続いた。立ち上がった僕も、「面会を了解してくれてありがとうございます」と頭を下げた。植松の横に座った年配の刑務官は、小さな机の上に紙を広げて、会話の内容を記録するためのペンを手にしている。
許されている面会は一日に1回。人数は3人まで。これが拘置所のルールだ。通常の場合は事前に、手紙などで当人と面会の約束を取り付ける。そのうえで日程を決めて、拘置所を訪ねて面会する。でも今回、僕はその手順を踏んでいない。

時間的にその余裕がなかったのだ。なぜなら彼に面会することを思いついたのは、死刑判決が下された2020年3月16日(一審判決公判)の翌日だ。もしもこの判決が確定したら、以降の面会はできなくなる。確定させないためには控訴するしかない。
でも死刑判決が下されたとしても控訴しないつもりであることを、植松は法廷で何度も言明していた。ならば死刑判決が確定する3月下旬以降は面会できなくなる。もしも会うのなら今しかない。もちろん、そう思うのは僕だけではない。だからこそ多くのメディア関係者が面会を求めるために殺到して順番待ちであることは聞いていた。
つまり(面会を希望する手紙を書くなど)普通に手順を踏んでいたら、ほぼ間違いなく面会が実現する前にタイムアウトになる。そもそもはもっと前の段階で、彼に面会することを思いつくべきだったのだ。でもつい最近まで僕は、彼に面会するという発想を持たなかった。
もう少し正確に書けば、彼と会って話す必要性をまったく感じていなかった。なぜなら起訴されて以降の植松は、メディアや識者などから寄せられる多くの面会依頼に対して、とても積極的に応じ続けていた。基本的には断らない。だから多くの雑誌や新聞で、面会時の彼の様子や言葉を読むことができた。
僕も連載執筆者の一人である「創」でも、篠田編集長が面会したときの一問一答を載せるだけではなく、植松から編集部に頻繁に届く手紙やイラストを、ほぼ毎月のように掲載していた。
普通の人
「その節はお世話になりました」
椅子に腰を下ろした植松が、アクリル板越しに微笑みながら僕に言った。その節とは何だろう。あああの節か。そう思いながら僕は、「お世話になったのはこちらです」と答えた。
「偏差値の高い学生さんばかりで、話しながら楽しかったです」
偏差値という言葉を当たり前のように使う植松に、このとき少し違和感を持った。
「何だ、二人は面識があったの?」と篠田が横から不思議そうに言う。「面識はないです」と僕は篠田に答える。面識はない。でも接点はあった。この日からちょうど1年ほど前、教えている大学のゼミ生数人から、ゼミの研究テーマの一環として植松に面会したいのですが、と相談を受けた。
この時期のゼミは死刑制度をテーマにしていて、確定前の死刑囚との面会を僕はゼミ生たちに勧めていた。この段階で植松は死刑囚ではない。ただし死刑判決が出ることはほぼ既定事項だ。ならば植松に面会することは決して意味のないことではない。そう考えて僕はゼミ生たちに手順を教えた。まずは手紙を書くこと。そして返事が来たら面会を打診すること。
植松は学生たちの要望に応じた。面会後に成果を聞いた。普通の人で驚きました。ゼミ生たちは異口同音にそう言った。死刑囚は狂暴で冷酷。多くの人はそう思っている。言い換えれば、そう思うほうが善と悪をすっきりと二分できて楽なのだ。
オウムの地下鉄サリン事件が典型だが、メディアは社会の潜在的欲望に合わせて報道する。つまり当時のオウム信者についての報道は、とにかく狂暴で冷酷で危険な集団であるという前提が常にあった。
この時期にテレビ・ドキュメンタリーとして放送するためにオウム施設に入って撮影を始めた僕は、普通以上に穏やかで優しく善良な信者たちを目撃した。