教育は、変えられるーー授業改善ではなく、学びの構造転換を!!

自立と共生のための「学び」の在り方
山口 裕也 プロフィール

授業改善ではなく、学びの構造転換を

どうして、こんなことが起こるのでしょうか。

その理由はある意味とても簡単で、つまり「自由」だからです。

「選択」や「決定」の自由が一人一人に与えられていることで、「みんなと違うこと」が許容され、しかも、「学びを進める主体は自分たち」という確信を自然と抱くようになるからです。

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話が前後しますが、私が言う「学びの構造転換」とは、簡単に言えば、「学びの在り方をもう一度、考え直す」取組です。

日本で欧米のキャッチアップを目標とする近代化が始まった明治時代をスタートに、およそ150年間続いてきた今の学校教育制度。それは、大胆に要約すれば、価値観も考え方もバラバラな個人を「みな同じ」にしようとするものでした。

だから、「先生に指示されたとおり、みなが同じ内容を、みなが同じペースで、みなが同じ方法で」学ぶ。「教員一人当たりの児童生徒数」など当時の状況からすれば「合理的」でもあったこの「教員主体」で「一斉・一律」の授業は、例えば戦後の「高度経済成長」の支えとなってきました。

しかしこれは、逆に言えば、「生存」や「安全」にかかわる最低限の「みな同じ」は、すでにこの時点で実現されているということです。そうすると、人々の「生き方」は、当然ですが多様化します。高校や大学等への進学率の上昇も相俟って「欲求の階層」が上がり、それぞれが、それぞれの「自己実現」を目指すようになったのです。

そこで、学びの構造転換です。

この取組は、「みな同じ」を土台にしつつ、本来的に人は「みな違う」のだということから学びの在り方を考え直していくものです。

一人一人の多様な生き方を支える学びを実現することはもちろん、学校教育の「難問」を解決するために。

学級崩壊はなぜ起こる?

人は、言うまでもなく、「一人一人、異なる」存在です。子どもたちは、生まれも育ちも、興味や関心も、得意なことも苦手なことも違います。考えてみてほしいのは、にもかかわらず「みな同じ」を課し続ければ、一体、どういうことになるのかということです。

例えば、「みなと同じペースでできなかった子」は、「落ちこぼれ」と呼ばれることになります。

では、落ちこぼれた子はどうなるでしょうか。「いじめ」の対象になるかもしれません。なら、いじめられた子はどうなるでしょう。「不登校」になるかもしれません。「みなと同じ方法でできなかった子」はどうなるでしょう。きっと、「特別な教育ニーズがある子」、すなわち、「普通の子」と分けて特別なカリキュラム(教育課程)を組まなければならない子、とされるでしょう。

こうしたことの総体として起きるのが、いわゆる「学級崩壊」です。

そう、こうした学校教育の難問は、「みな同じ」を課し続けていることの半ば必然の結果なのです。

自由な生き方ができるような社会になったのは、もう、30年も前のことなのに。時代はとっくに変わったのに、学校が、授業が、学び方が、時代に追い付いていないのです。

もちろん、現実に教室で起こっていることは、こんなに単純ではありません。学校を取り巻く社会の状況も同じです。

でも、こうして単純化して難問の「根」をつかみ出してみると、そこには、底なしに増えていく、そして、涙ぐましいまでの教員の「授業改善」に対する努力や時間を、抜本的に変えられるかもしれない「ヒント」が隠されていることにも気付くことができます。

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