理事長への反撃
とにかく必要なお金は払うから、訴訟は取り下げてもらうようにと、理事長に電話したが、留守電になっていて誰も出ない。何度かけても同じ状態だった。近所の奥さんも「まあ、一度はきちんと裁判で白黒つけたほうがいいということになったんですよ」と冷たい返事。
「少額訴訟」とは、家賃をいつまでも払わないなどの悪質な「延滞」に対抗するため、一回の審理だけで判決を出すという訴訟手続き。六十万円以下の支払いを求めるという場合だけに適用される。別の奥さんは声を潜めながら、「まあ、この訴訟は負けても一万円だしねえ、という理事長の一言で押し切られちゃったのよ。ごめんなさいね」と話してくれた。
Dさんは、すぐに必要なお金を払い込む手続きをして、そのうえで知り合いの弁護士と相談した。
少額訴訟が行われる日、理事長は意気揚々と裁判所に乗り込んだ。裁判という公的な場で、Dさん夫婦の「悪事」を堂々と暴露できる。どこかそんな気持ちがあったのだろう。しかし、Dさん夫婦は姿を見せず、代理の弁護士から次のように通告された。
「この件は、少額訴訟ではなく通常の訴訟手続きに切り替えます」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。何度も聞き直して、やっと理解したのは次のようなことだった。
少額訴訟は、訴えたほうが圧倒的に有利な裁判。そのため、訴えられた側を守るために一つの権利が与えられている。それが「通常の裁判に切り替える」権利なのである。訴えた側はこの決定を覆すことができない。つまり、通常裁判で白黒つけるしかなくなるのである。
理事長は、Dさん夫婦がまさかそのような「反撃」をしてくるとは思っていなかった。顔色を変えてマンションに戻った彼は、緊急の総会を招集した。本格的な裁判になるとすれば、負けても一万円などというレベルではない。弁護士を頼むだけで数十万円の出費。それを全戸から緊急に集めるという提案をした。
案の定、総会は大荒れとなった。「理事長さんが、負けても一万円っていうから、しぶしぶ賛成したんですよ。話が全然違うじゃないですか!」「理事長がきちんと話を伝えてお金を出してもらえば、それで済んだ話じゃなかったのか?」等々。
数日後、Dさんのもとに弁護士から電話が入った。
「理事長は訴えを取り下げてきましたよ。和解したいそうです。どうしますか?」