昨年末、恵比寿の高級ラウンジでテキーラ一気飲みゲームによって、女性スタッフが亡くなるというニュースがネット上を駆けめぐった。「750ミリリットルのテキーラを15分以内に飲めたら10万円」という内容の凄まじさと、そのゲームを考案したのがとあるカリスマ起業家であったことがニュースの衝撃さを強めた。
この悲しい出来事に、自分の経験を重ねてしまった人は少なくないのではないだろうか。僕自身もそうだった。コロナ禍で例年よりだいぶ新年会の数が減っているようだが、この時期に、改めて酒の席で顕在化する“有害な男らしさ”の問題について考えてみたい。
酒の強さと性体験の多さが「男らしさ」になる社会
これまで僕はいくつかの会社で働いてきたが、男性上司たちと飲みに行った際、どれだけお酒が飲めるか、もしくはどれだけ女性と性的な行為をしてきたか、という自慢を聞かされることが多かった。すべての勤務先でそうだったとは言わないが、体育会系の雰囲気を持つ会社では、例外なくそうだった。
特にベンチャー企業を立ち上げるような、上昇志向の強い役員ほどそうした傾向が見られた。さらに彼らに共通していたのは、酒の強さと性体験の多さが、「男らしい」「頼りがいがある」として彼らの高評価につながるという点だった。酒の強さと性体験の多さを求められることは、それが好きでない者にとっては苦しみでしかない。

だから冒頭のニュースを目にした際、亡くなられた方に対する痛ましい思いとは別に、その“有害な男らしさ”に悩まされてきた自分の過去についても思い返さずにはいられなかった。
元々、僕はあまりお酒が好きではない。そして、体育会系のノリが苦手な文化系の男で、なおかつゲイだ。そんな僕にとって、お酒と女性の話が場を支配する空間は、はっきり言って地獄だった。職場ではあまり目立たぬようにし、飲み会の席でも空気のような存在でいることが、いつしか処世術になっていた。
だが、飲みの席では否応なしに、男性上司たちからのジャッジの視線にさらされる。まるで、「お前は一人前の男なのか」と聞かれているような気分だった。