言われた人の気持ちがわかっているか
オリンピック・パラリンピック委員会の森喜朗会長が「差別的発言」の責任をとって辞任の運びとなった。IOCからも正式に「完全に不適切」だと指摘され、世界各国のメディアからも苦言が相次いだ。陸上の寺田明日香選手をはじめ、元五輪代表の為末大さんや現役として五輪出場を目指す萩野公介選手など、次々と選手側から抗議の声が続いたことも辞任に大きな影響を与えただろう。

逆に言えば、「そこまで国内外から疑問符がつくまで辞任しなかった」ともいえる。本来ならば謝罪会見のあとにも周囲が「その謝罪では謝罪になっていませんよ」と諭し、たとえそれまでの功績はあるとはいえ、差別的発言の「差別的な意味」を理解していない森会長には、即座の辞任を提案する必要があったのではないだろうか。
それどころか、二階俊博幹事長においては、森会長の影響でボランティアの辞退が相次いだことに対し、2月8日の会見で次のように述べていた。
「関係者の皆さんは瞬間的に協力できないとおっしゃったんだと思うが、落ち着いて静かになったら、考えも変わるだろう。どうしてもやめたいならまた新たなボランティアを募集せざるを得ない」
二階幹事長は「ボランティアを辞退した人の気持ち」を考えるどころか、辞退した人たちが瞬間湯沸かし器のように怒って行動し、冷静になれば戻ってくるかのようなことを言ったわけである。当然、森会長辞任の一報が出る前の発言だから、森会長が辞任せずとも、時間が経てば落ち着くだろうし、落ち着いたら考えが変わるだろうと思っていたわけだ。
森氏にせよ、二階氏にせよ、これらはすべて「自分事」として考えておらず、相手のことを軽んじているからこそ出てくる言動ではないのだろうか。女性としてこの言葉を聞いたらどう思うか、ボランティアを辞退した人としてこの言葉を聞いたらどう思うか。そういう想像力は欠片もみられなかったのではないか。
