だからといって、家族関係や友人、恋人関係といった、他の人間関係に引けを取るとは思っていません。それらと並ぶ、一つの新しい人間関係だと思っています。
例えば友人関係であれば、自分の言動によって友人との距離が縮まることもあれば、関係が壊れることもありますよね。
対して、この本に登場するあかりと推しとの関係は、一方的だからこそ、距離は離れることも近づくこともない。自分を受け止めて肯定してくれることはないけれど、否定もされない。
あかりは、自分の現状を誰かに受け入れてもらうことはとうに諦めていて、ただ自分からも他人からも否定される辛さは身に染みている。そういうとき、遠くにいるそうした存在が、癒やしになり、孤独を和らげてくれることがあるんだと思います。
「好き」だから、「まるごと解釈したい」
―あかりは学校でも家庭でも生きづらさを抱えています。勉強はできず、バイトはクビになり、部屋は汚れ、爪を切るのも億劫……苦しい日常が描写されます。
爪が伸びることからも、生活がままならないことからも、逃れることはできません。小説は虚構ではあるのですが、現実の重さを書きたいと思いました。
―そんなあかりにとって推しを推すことは〈背骨〉であり唯一の〈生きる手立て〉。テレビ、ラジオ、雑誌など、推しのあらゆる発言をチェックし、作品も人もまるごと解釈しようと、全エネルギーを注ぎます。「推す」人の心理と生態、そして情熱がよくわかります。

実際にそういうファンの方を見かけることも多いです。私自身は実在する推しを解釈することはなく、自分自身のスタンスとは違っていたので、書くにあたって色々と調べました。
そういう方々のSNS投稿やブログを通して、「知りたい」と「好き」は近しいものなのかなと思いましたね。
ただ、誰かが解釈したその人の像が、そのままその人であることはないとは思っています。距離や関係性が遠い、近いにかかわらず、根本的に他人のことはわからないものだから。これは友人でも恋人でも、ある意味同じではないでしょうか。
―あかりの推しは炎上によって人気を失い、追い込まれていき、一つの終焉を迎えます。ラストはどのように考えていかれましたか?
推しを推すことを中心に書くならば、自然の成り行きだろうと考えました。理由はなんであれ、推しが実在する人である限りは、いつか推せない状況がくる。