渋沢栄一がいなければ今の日本はなかった…結局、何がスゴかったのか?

鉄道の歴史から見えてくるもの
佐藤 信之 プロフィール

大蔵官僚としての渋沢栄一

徳川昭武の随行でヨーロッパにあった渋沢は、大政奉還によって急遽帰国を余儀なくされた。徳川幕府の終焉により、謹慎を命じられた慶喜に従って静岡藩の行政官となった。

明治政府は、優秀な人材を求めており、洋行の経験のある渋沢にも官吏への勧誘があった。新政府の重鎮である大隈重信が、自ら渋沢を説得して大蔵省への出仕を実現した。渋沢の大蔵省での一番の功績は、「国立銀行条例」の制定であった。

国立銀行といっても、現在の日本銀行のような中央銀行ではなく、国からは独立した金融機関で、民間からの出資を受けて全国各地に設立された。

 

国立銀行の業務の一つに、兌換紙幣の発行がある。それまでは江戸時代の通貨や藩札がそのまま使用されたほか、粗悪な貨幣が流通していた。日本の通貨は国際的な信用力がないため、貿易にはメキシコ銀貨が使用されていた。そこで、国際的な信用力を備える通貨を鋳造するため、大阪に造幣寮が設置され、紙幣を発行するために国立銀行が設立されたのであった。

しかし渋沢栄一は、明治5年に大蔵省を退官して民間の実業家に転じ、自ら制度設計に参加した最初の国立銀行として「第一国立銀行」を設立した。

第一国立銀行は各地に設立された国立銀行を指導する位置にあったが、地方の国立銀行は、国の殖産興業政策に従って、地方の産業化に資金を供給していった。

この起業支援の金融システムを構築する中で、渋沢栄一は、さまざまな分野の企業の設立にかかわった。ただ、基本的には、基礎的な建設資材の製造や流通のための企業が中心で、日本を産業国家として発展さるための社会基盤の整備に関するものであった。

その背景にあった渋沢栄一の経済活動に対する考え方は、彼の生涯に通底する「論語と算盤」の思想に込められている。江戸時代には、朱子学を中心とした道徳意識が普及し、商業取引も、一方的に義理人情なく利得をむさぼるものではなかった。この民衆という意味での「公」に対する奉仕の意識をベースに持った商取引を強く問いかけた。

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