深海に君臨する「トップ・プレデター」
ヨコヅナイワシは発見されたばかりの魚なので、その暮らしぶりに関する情報はほとんどない。
しかし、深海の生態系の中でどんな位置を占めているのか、推測できる研究手法がある。この分析で役立つのは、ヨコヅナイワシの体に含まれる窒素の「安定同位体比」のデータだ。
同じ元素でも、中性子の数が異なるものを「同位体」という。中性子の数が違うので、原子核内の陽子と中性子の合計数である質量数もそれぞれ異なる。
同位体は、不安定核種である「放射性同位体」と、自然界に安定に存在する「安定同位体」に分類される。窒素の安定同位体は、中性子の数が7個で質量数が14の「窒素14」が99.6%、中性子が8個で質量数が15の「窒素15」が0.3%あまり、それぞれ存在する。
この、窒素15の同位体比のデータを使うことで、サンプルの生物が生態ピラミッドの中でどんな地位にあるのか推測できるのだ。生態系の中で高次に位置する捕食者ほど、窒素15の割合は高い傾向がみられる。
食物連鎖の各段階のことを「栄養段階」という。
たとえば、一次生産を担う植物プランクトンは「1」、動物プランクトンのカイアシ類は「2」、マイワシなら「3」程度、といった具合だ。そして、特定アミノ酸(グルタミン酸とフェニルアラニン)の窒素安定同位体比から導き出された2個体のヨコヅナイワシの栄養段階は、いずれも「4.9」ときわめて高いことが明らかになった(グラフ参照)。

駿河湾の深海には、恐ろしい形相から「悪魔のサメ」ともよばれるミツクリザメ(Mitsukurina owstoni)や、成長すると全長が5mにもなるカグラザメ(Hexanchus griseus)など、さまざまな種類の「深海ザメ」たちが生息している。深海の世界に君臨する捕食者といえば、まず思い浮かぶのは深海ザメだ。しかし、ヨコヅナイワシの栄養段階は、それらのサメたちをしのぐ値だったのだ。
研究チームは今回の分析結果について、「駿河湾深部で解析された生物の中で最も高く、全海洋中でも非常に高い」と結論している。セキトリイワシ科の魚たちの多くは、クラゲなどのゼラチン質プランクトンを食べて暮らしているが、ヨコヅナイワシの胃の内容物調査では魚類の耳石が見つかった。これは、魚食性を示す証拠だ。また、消化物のDNA解析でも、深海性のアシロ科の魚類を食べていることが推察された。
ヨコヅナイワシは「魚食性の魚」であり、駿河湾の深海で生態系の頂点に立つ「トップ・プレデター」だと考えられる。これは、陸上でいえば、サバンナにおけるライオンのような存在だ。
未発見だった理由は?
これほど巨大な魚なのに、なぜ今まで発見されずにいたのか?
河戸さんは、「網を引いて魚を集める一般的な深海トロールでは、ヨコヅナイワシのように大きくて遊泳力の高い魚は逃げてしまう。今回は、自分からエサを食べにやって来て、針にかかったのだろう」と推測する。
また、駿河湾ではサメなどを狙う漁がおこなわれているが、湾口部に位置するセキトリイワシの発見海域は岸から遠く、かつ非常に深いこともあって、漁業者による延縄漁の対象地域に含まれていなかった。このことも、これまでヨコヅナイワシの存在が世の中に知られることがなかった理由の1つと考えられるという。
土田さんはさらに、「有人潜水調査船の『しんかい6500』や、遠隔操作型の無人潜水機(ROV)による深海生物の調査では、ライトで周辺を照らしたり、海中にモーター音が響いたりするので、警戒心の強い魚だとなかなか姿をとらえられない」とも指摘する。
研究チームは駿河湾で、エサをつけたカメラを海の底に沈める「ベイトカメラ調査」を4回実施。深海底を泳ぐヨコヅナイワシの姿を動画撮影することに成功した。

ただし、現時点では、寿命や繁殖のしかた、体がどのくらいまで大きくなるのかなど、ヨコヅナイワシの生態はほとんど謎のままだ。そもそも、これまでに捕獲された4個体はいずれもメスで、オスはまだ見つかっていない。
土田さんは「オスの生息場所はどこで、メスと同じ海域なのかどうか。我々がまだ捕獲できていないだけなのか。それすらも、まだわかっていない状況だ」と話す。
そして、もしかすると、ヨコヅナイワシの個体数は、かなり少ないかもしれない。というのも、生態ピラミッドの頂点に近い生物ほど、その個体数は少ないと推定されるからだ。
藤原さんは「トップ・プレデターは基本的に寿命が長く、繁殖できるまで成熟するのに時間がかかる」と指摘する。つまり、「強者」のイメージがあるトップ・プレデターだが、じつは生息数が少なく、もしなんらかのダメージを受ければ、なかなか個体数が回復しにくい存在だといえる。
海の温暖化や酸性化、貧酸素化といった環境の変化が起きれば、その影響は幅広い種類の生物におよぶが、上位の捕食者であるヨコヅナイワシは、そうした変化に対して特に脆弱な可能性がある。そして、もし乱獲してしまったら、比較的短期間のうちに存亡の危機に立たされるおそれもある。
こうした点も考慮して、研究チームは「捕獲」という調査手法にこだわらず、水中に漂う微量のDNAを分析して生物の存在を突き止める「環境DNA調査」によってヨコヅナイワシの分布の広がりを探るなど、生態系へのダメージが少ない研究手法を模索していくという。
神秘のベールにつつまれたヨコヅナイワシの生態──。今後のさらなる調査で、その解明が進むことを期待したい。
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1mを超す魚が、いまだに新種として発見される──。その事実は、海の底に私たちの知らない世界がまだまだ広がっていることを教えてくれます。一方で、海洋プラスチックごみの世界的な拡散など、私たち人類は、広大な海の環境そのものを大きく変えてしまうほどの力をもつようになりました。
そして、人間活動の影響によって、海の中でも「温暖化」が進みつつあります。海水温の上昇は、海の生態系を大きく変化させ、その結果として、私たちの食卓にも将来、大きな影響が及ぶことが避けられません。
日本列島をとりまく海と、そこに暮らす生き物たちに、いま具体的に何が起きていて、それは今後、どう変化していくのか──。このコラムの筆者・山本智之さんの最新刊『温暖化で日本の海に何が起こるのか』で詳しく解説されています。ぜひご一読ください。