2021.03.02
# エンタメ

インドネシア大虐殺事件「罪に問われない殺人者」の闇落ちを追う『アクト・オブ・キリング』の衝撃

サブスクで観れる「ほぼ独断」隠れ名作3
高木 敦史 プロフィール

自由を謳歌する一方で、たびたびアンワルの言及するのが「悪夢」です。眠ると殺した人間が悪霊になって夢に出てくるのだそうです。アンワルは「あいつに子供がいたらきっと自分に報復したいだろうな」と呟きます。

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彼は心の奥底で、報復を恐れていました。事実、アンワルは冒頭でちらりと「俺たちの代わりに、政府が謝ってくれたらいいのに」とも語っています。仕返しを恐れ、自分の行動の責任を自分以外に負って欲しいと願っているのです。

仕返しされないためには、権力を持ち、英雄であり続ける必要があります。プレマンたちが今以上の自由=権力を求めるのは、報復の可能性を潰すことと、もう一つ。「自分たちには責任がない」というお墨付きを自分たちに与えるためです。

映画撮影に頷いたのも、映画によって自分たちの権力を強固にして報復を願う者たちを一掃したいと考えてのことでした。英雄であり続けることに固執し、その一方で悪夢に苦しむアンワル。果たして彼は本当の意味で自由と言えるのでしょうか?

自由人の不自由さ

自由は発展とともに拡大・変化してきました。そして人類史を紐解く必要もなく、全ての発展は多くの闘争や犠牲の上にあります。

現在の先進国を生きる者で発展の恩恵を一つも受けていない人間などいないでしょう。そして発展の代償たる格差や弾圧は、生まれたときから間接的に巡り巡って生活に関わっています。

どこか貧しい国に住む知らない人たちの強制に近い労働により生産された服や食べ物を安価で得たりしていますし、もっと身近なところでも資産や学歴など様々な形で格差が存在し、人々の日々はそれらがないまぜになる中で流れていきます。

人は生まれながらに業を背負っているなどと言われますが、我々は誰しも、物心ついた時には既に世界の成り立ちに関する共犯者となっています。

世の多くの人が漠然と望む自由は、人に迷惑をかけず、代わりに自身やその家族・友人たちが平穏に暮らせればいい……といったところではないでしょうか。しかしその平穏は、望む望まないにかかわらず事実として見知らぬ他人の抑圧とともにあります。そのことに気づくと、思わず足元が揺らぎます。

特に昨今、情報化によって本来知らないままでいられた世界情勢が対岸の火事とも呼べぬものとして眼前に提示されます。

誰かの嫌なニュースを見て我がことのように身震いする――自分の業について意識する場面が増えてきたように感じます。大きな力で全てを解決してくれるヒーローはなかなか現れてはくれません。

とすると問題は、この生まれながらに背負った業をどう濯ぐのかという点に向かいます。どのように世界を良くしていくのか。

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