先史時代から、殷・周の時代、春秋・戦国時代、秦の始皇帝の中国統一、項羽と劉邦の楚漢戦争……古代中国の戦争を軸に「中華帝国」誕生の前史を明らかにした歴史ファン待望の一冊である、佐藤信弥氏による現代新書の最新刊『戦争の中国古代史』から、その一部をお届けする。
戦国七雄と秦の台頭
前4世紀末頃からの戦国時代は、中原に位置する魏が覇権を失った後、七雄の中で強勢を誇る西方の秦、東方の斉、北方の趙、南方の楚のうち、秦が台頭していく歴史と見ることができる。
秦、斉、趙、楚に韓、魏、燕を加えた7国が「戦国七雄」と呼ばれる。
秦が強国化したのは、商鞅の変法がきっかけであるとされる。商鞅は衛国の出身で、もとは衛鞅あるいは公孫鞅といった。最初魏に仕えたが重用されず、秦に赴き、孝公に信任されて変法と呼ばれる改革を行った。秦に仕えてから商・於の地に封ぜられたので、商鞅あるいは商君と呼ばれるようになった。
商鞅の名や活動は、『史記』のような後世の文献だけでなく、同時代の出土文献の中にも見える。
「大良造鞅」あるいは「大良造庶長鞅」の名を刻した青銅の兵器や量器(度量衡の標準器)が発見されている。商鞅がこれらの器物の製造責任者となっていたということである。「大良造」(後に大上造と称される)、「庶長」(左庶長)は後文で触れる軍功爵であり、商鞅の伝記をまとめた『史記』の商君列伝にも、彼がこうした爵位を授けられたことが見える。
また湖北省荊州市で出土した楚国の竹簡、天星観楚簡には「秦客公孫鞅、王を菽郢に問うの歳」と、商鞅が秦の使者として楚の国都に赴いたという記述が見える。
商君変法の虚実
商鞅の変法は「富国強兵」を目的としたもので、第一次、第二次と、二度にわたって行われたとされる。
第一次変法では、民を五戸単位の「伍」、十戸単位の「什」に編制し、互いに監視しあい、罪人が出れば連帯責任を問うという、五人組制度とも言うべき什伍の制、一家に2人以上の男子がいれば必ず分家させ、違反した者は賦税を倍にするという制度、そして軍功を挙げた者に爵位を与え、君主の一族でも軍功のない者は公族の籍に入れないという軍功爵の制度を採用するといった改革が行われた。
第二次変法は、櫟陽(現在の陝西省西安市閻良区)から咸陽(現在の陝西省咸陽市)への遷都を機に施行された。小規模の集落を統合して県を組織し、中央が任命した県令(県の長官)や県丞(県の副長官)に統治させ、国全体で31の県を設置し、土地にかけられる賦税を全国均一とするために、阡陌制と呼ばれる農地の区画整理が行われ、そして度量衡の統一が行われた。先に触れた「大良造鞅」の銘のある量器は、その際のものとされる。
ただし中国古代史研究者の吉本道雅は、こうした改革のすべてが果たして商鞅の手によるものだったかを疑問視する。たとえば第一次変法での什伍の制は、孝公の父親献公の時代に既に実施していたと見られ、第二次変法での阡陌制は、孝公の孫にあたる昭襄王の時代にようやく実施されたものであると指摘する。
秦が東方の大国斉に匹敵する強国として成長するにつれ、斉では覇者桓公と賢臣管仲が理想化されたように、秦では孝公と改革者としての商鞅が理想化され、歴代の改革が商鞅による変法として附会された。吉本氏は、商鞅の変法は史実というよりは「歴史認識」なのではないかと言う。