千年の時を超えて愛される、百人一首の謎

歌を詠み味わうことの本質は何か
お正月に家族でかるた取りをした百人一首、または学校の授業で必死で覚えた百人一首……どんな思い出があるでしょうか? 現代を代表する歌人の一人、水原紫苑さんは子どもの頃、百人一首のどこが面白かったのか分からなかったそうです。でも千年の時を超えて愛されるにはワケがある! 今回は水原さんが現代の視点で一首ごとに丁寧にときほぐし、その本質に迫った新刊『百人一首 うたものがたり』より「はじめに」を特別公開。日本人の基礎教養として知っておきたい、その深遠なる魅力に迫ります!

『ちはやふる』のもとは平安後期

みなさん、百人一首というものはご存じだと思います。でもその意味や内容をしみじみと考えた方は案外少ないのではないでしょうか。

私は実は歌人、つまり歌を作っている人間です。歌というものは百人一首の時代から全く形が変わっていなくて、基本的に五七五七七の三十一音でできている詩です。

われらかつて魚なりし頃かたらひし藻の蔭に似るゆふぐれ来たる  
                         水原紫苑『びあんか』

〈私たちが魚だった時、一緒に話していた藻の蔭のように、ほの暗く懐かしい夕暮れがやって来た〉

こういう歌を作っています。「われらかつて」は六音ですが、これは字余りと言って昔からある技法です。

でも、百人一首の古典和歌と、私たちの現代短歌とは、形は同じでも中身はいろいろ変わっています。そこがとてもむずかしいところなのですが、本の中でお話しして行きますね。

この本では歌人として、現代の視点でどこが面白いか読む百人一首ということをポイントにしたいと思います

有名な漫画の「ちはやふる」もありますから、百人一首のかるた大会についてはご存じの方も多いでしょう。

そしてまた百人一首が、平安後期から鎌倉時代の大歌人藤原定家(1162〜1241)によって撰ばれたものだということも、あるいはご存じかも知れません。

定家の子為家の妻の父である宇都宮頼綱(法名蓮生。宇都宮の豪族)から、嵯峨中院の山荘に障子色紙を書くように頼まれて、百人の歌人の一首ずつをしたためて送ったという記事が、定家の日記『明月記』にあります。

どうもそれが百人一首と呼ばれるものになったようです。

紫式部のあっさりした歌

定家といえばやはり大歌人藤原俊成(1114〜1204)の子で、『新古今和歌集』の撰者であり、代表的な歌人でもありました。家集(生涯の歌集)『拾遺愚草』や歌論集『近代秀歌』などがあり、『源氏物語』等の注釈でも国文学の基礎になる業績を残しています。

けれど、それが何?という疑問も湧いて来るでしょう。私もそうでした。子どもの頃のお正月には、家族や親戚が集まって、百人一首のかるた取りをしたものですが、いったいこんなもののどこが面白いのだろうと思っていました。

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ただ絵札の多くに美しいお姫様(本当は、女帝持統天皇と皇女式子内親王、それから家妻である右大将道綱母と儀同三司母を別とすれば、他は宮廷に仕える女房たちですが、当時の私にとってはすべてお姫様だったのです)が描いてあるので、それを見るのが楽しみでした。基本的な顔立ちは同じなのですが、微妙にポーズや衣裳が違っていて飽きないのです。

中でも紫式部清少納言和泉式部という王朝文学の有名人については、さすがに歌にも興味を持ちました。

あらざらむこの世のほかの思ひ出にいまひとたびの逢ふこともがな  
                               和泉式部

これは子ども心にもただごとではないと感じました。この人いったいどんな人なんだろうと強く心を惹かれました。

めぐり逢ひて見しやそれとも分かぬ間に雲隠れにし夜半の月かな  
                                紫式部

一方これは、この人があの『源氏物語』の作者なのね、その割にはあっさりしているんだなあと意外でした。

夜をこめて鳥の空音ははかるともよに逢坂の関はゆるさじ  
                               清少納言

そしてこれはさっぱりわからなかったのですが、絶対許さないからね、という高らかな宣言は素敵だと思いました。

自分もこの人たちのようにうたってみたいなと、畏れ多いことをうっすら願っていたような気がします。